日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年11月1日 説教:森田恭一郎牧師

「我が身体、心と共に甦る」

ヨブ記  一九・二三~二七
Ⅰコリント一五・五〇~五三

順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。今日の主題は三段落目の「我は身体の甦りを信ず」です。聖霊の項目ですが、教会を「聖なる公同の教会」にし、弱さも欠けもある私たちとその交わりを「聖徒の交わり」にし、私たちの「身体の甦り」を実現させる聖霊を信ず、ということです。どうして身体の甦りを信じる事が出来るのかというと、人と成られたキリストが最初の者として甦らされたからです。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました(Ⅰコリント一五・二〇)。人である私たちも初穂に続いて甦らされるのです。天に希望を繋ぐことが出来、これは実に幸いなことです。そして教会の礼拝でこそ、この幸いな希望を知ることが出来るということも、心に留めておきたい。

 

先週は教会研修会で、礼拝プログラムの内、恵みを賜る部分と、恵みを受けて応答をささげる部分がある。賜るのは《招き》《恵みの授与》(週報では恵みの受領の見出しですが、受領はその前提に授与があります)や《祝福》の所。そしてささげるのは恵みを受領して《感謝や悔い改め》と《献身》《派遣》の所。聖なる恵みを受領し応答していく姿が「聖徒の交わり」であり、礼拝をささげる私たち聖徒の姿が(今日は祈祷課題の所で記しましたが)教会の活力…になることを確認しました。礼拝をささげる営みは、恵みに対する私たちの応答ですから、私たちの行為・営みです。

その意味では、使徒言行録が記すように使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒言行録二・四二)、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた(同四六~四七節)、礼拝に出席し礼拝をささげる自覚を求めます。そして、聖徒の交わりの見える姿が、民衆全体から好意を寄せられた(同四七節)ことに繋がっていきます。

 

それに対して「身体の甦り」は私たちの営みではなく、一〇〇%、聖霊なる神様の御業です。しかもこの神様の御業は、一人ひとり人間の善し悪しに応じて甦らせたりしなかったりというのではない、誰にでも約束されている恵みそのものです。そして誰にでも、すなわち自分自身に実現する自分の身体の甦りです。

自分自身というのは、地上で生きていた人生を含む自分の甦りです。今日は旧約聖書からヨブ記を読みました。ヨブ記はフィクションの物語ですが、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きた人物設定です。このヨブがある日突然、財産も家族も失い、自分の身体も全身痒くなる皮膚病に罹る。自分は何も悪いことしていないのに、どうしてこのような目に遭わねばならないのか、全くの不条理だと、神様に訴えます。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この塵とは、自分が死んで塵に帰る。塵となった自分の上に神が神としておられるということでしょう。たとえ最期を迎えるとしても、その時までの自分の人生、思いや心もあった訳で、それを象徴するのが、この皮膚です。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。他ならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る(ヨブ記一九・二五~二七)。損なわれた皮膚が象徴する人生と心を抱えたこの私が、神にまみえて、問いかけたい。人は生きるにしても死ぬにしても、自分の人生を抱えて生き、自分の人生を抱えた上で死ぬ訳です。そして復活がある。人生を抱えて神にまみえる。

 

パウロは復活について、こう語ります。まず、兄弟たち、私はこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(Ⅰコリント一五・五〇)。そのままの身体で甦らされるのではない。自然の命の体から霊の体へ復活します(Ⅰコリント一五・四四)。その上で、ヨブが「この」身を以て、「この」私が、と言ったようにパウロも語る。死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。「この」朽ちるべきものが朽ちないものを着、「この」死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります(Ⅰコリント一五・五二~五三)。ヨブもパウロも「この」と指示代名詞で固有な自分を強調しています。復活は、復活したら誰もが同じ復活体になるのではない、その人の人格と地上の人生が込められている復活体です。地上を生きた「この」自分の人生が視野に入っている。ヨブの場合には不条理を抱えてのこの人生。私たちも夫々に、楽しい経験(今日午後の教会学校の遠足も)もあれば、弱さや欠けや失敗や後悔、病や不幸や労苦、不条理もあった。でもキリストがその全てを贖って下さった。それで私たちは、朽ちないもの、死なないものを着て甦らされる。幸いな希望です。最後は神様に対して有り難うと言える。私たち人間同士も。

聖餐は、自分のこの罪の贖いの事実と、甦らされて共に招かれる天上の食卓を表しています。

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