ルカ一五・一一~二四
順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。今日の主題は三段落目の「我は罪の赦しを信ず」です。使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」は次週味わいたいと思います。そして今日は主イエスがお話し下さった譬え話、放蕩息子の譬え話から「反省と悔い改めの各々の意義」を考えます。
放蕩というのは、勉強も仕事もしないで遊びに夢中になってしまうことです。ある人に息子が二人いました。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を下さい』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやりました。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
仕事もしないで遊んでばかりいましたから、お父さんから戴いたお金はすぐ使い果たしてしまいました。お金がすっからかんになって何もかも使い果たした丁度そのとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。さぁどうしよう?
この息子は、それで、その地方に住むある人の所に身を寄せました。何か仕事ありませんか。なんでもしますから。そうしたらその人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。さぁどうしよう?
そこで、彼は我に返って言った。『父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。彼がしたことは「我に返った」ことです。自分が何をしてしまっているか我自身を見る、反省することです。
反省することは大事です。何で食べ物を買えないこんなことになっちゃったのだろう、ここまでやって来て遊んじゃったから自分が悪かった、自分と自分を取り巻く状況を見据えます。「我に返って」反省する。この息子が改めて見た我自身は「私はここで飢え死にしそうだ」という自分です。そして次にどうするか考えるようになるからです。我に返って反省するのは大事です。そこで、息子は何を見出しましたか。父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある、ということです。そこで、さぁどうしよう?
父の所に行くことにしました。彼は決めました。でも、息子の言葉をよく聞くと、父親の所に帰るのですか? 有り余るほどパンが有る所ですか? お腹が空いているからパンのある所に行くようです。でも、せっかく財産を戴いたのに、遊ぶことに使い果たしてしまったから、そのままでは帰れない。さぁどうしよう?
そこで考えました。ここをたち、父の所に行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい」と。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。でも本心はパンが食べたいからです。
さて、父親です。財産をもらって息子が出て行ってしまった。しばらくするとあっちの方では飢饉が起こっているらしい。大丈夫かな、心配で心配で仕方有りません。今度は父親が、さぁどうしよう? あんな放蕩息子、どうにでもなれ、なんて全然思いません。心配です。皆さん、この時の気持ちを抱えた父親の姿を絵にすると、どんな絵を描きますか?
この話に聞き入っていたある小学生が、こんな絵を描きました(これは私が描いた絵ですが)。
父親が持っているのは、双眼鏡です。遠くて小さくてよく見えない所を見るときに使うものです。もちろん当時、双眼鏡なんてありませんけれど、この小学生は、父親の気持ちをこう描いた訳です。
聖書はこう記します。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて…。この文章、
帰って行く息子が父を見つけるのと、帰ってくる息子を父が見つけるのと、どっちが先でしょうか? 父親ですね。さすが、心は双眼鏡です。
そこで聖句カードを見てみましょう(二〇一八年度No32).
そして見つけた父親は、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。そして、息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』。ストップ! 息子がここまで語ったとき、父親はストップさせました。息子はもうひと言、言うつもりでした。「雇い人の一人にして下さい」。雇い人になればパンが食べられるからです。でも父親はそこまで言わせませんでした。息子が「罪を犯しました」と我に返って自分を見て反省するのは大事だ。けれども、反省して「息子と呼ばれる資格はありません」ということではない。大事なのは、反省してパンを得るためにはどうしよう、ではなくて、この私に思いを向けることだ。
お腹の空いた自分から、父に思いを向け直すことを「悔い改め」と言います。イエス様が私たちに求めていることは、その時、駄目な自分であっても、その自分に思いを向ける以上に、イエス様、父なる神様に思いを向けることです。
それで、父親はどうしましたか? しかし、父親は僕たちに言った。『急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。息子であることをやめて雇い人になってしまうなんて考えられない。イエス様はその罪は私が十字架で負うから、あなたの罪を赦そう。父の息子でいなさい、と息子が息子としてここにいる、ことを喜ばれたのでした。息子は悔い改めて、この喜んでいる父親を見て、息子で良いのだと喜びに包まれました。そして、祝宴を始めたのでした。
