出エジプト一九・三~六
使徒言行録二・三七~四二
順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。今日の主題は三段落目の「我は聖徒の交わりを信ず」です。そして今日の主題は、弱さも欠けもある私たちが、何故、聖徒なのか、その交わりとは何であるのか。このことに思いを向けながら、次週の教会研修会の準備の一端としたいと願います。
使徒信条は「聖霊を信ず」の次に「教会を信ず、
聖徒の交わりを信ず」と続けます。聖霊を信ずるとは教会を信じ、聖徒の交わりを信じることなのだ、と言っているようです。でも教会も聖徒の交わりも神様ではありませんから、聖霊を信じる事と教会や聖徒を信じる事は同列ではありません。信条の語るのは、教会を「聖なる公同の教会」にし、弱さも欠けもある私たちとその交わりを「聖徒の交わり」にしている聖霊を信ず、ということです。聖霊が私たちを聖徒にして下さる、聖霊が教会の私たちの交わりを聖徒の交わりにして下さる。これは信じる事柄です。何故なら、現にある見える私たちは、やはり罪人でしかない。およそ「聖徒」とは言えない。 だからペトロは言いました。 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して戴きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録二・三八)。悔い改めてキリストに向き直り、洗礼を受けることからスタートです。
私たちの側の事実としては罪人であることは消えません。世の終わり、世の完成が来るまでは、赦された罪人、義人にして同時に罪人です。頑張って聖徒らしく振る舞い生きて下さい、と言われても所詮、無理な話です。説教題に共同体の代わりに「共異体」という用語を用いました。先日の本の新聞広告に載っていた書名なのですが、本の内容はともかく用語そのものに興味を覚えました。私たち一人ひとりは賜物も欠点も異なっていますが、その私たちが聖なる事に与ることで一つになっている、そのような共異体です。教会の聖徒たる者、金太郎飴のように皆同じにならなければならない、という必要はない訳です。そして私たちが聖徒であるのは、私たちの努力によって立派な聖徒になるのではない。聖徒であるのは聖霊の賜物であることを、まずは念頭に置きましょう。
聖徒の交わりについて大きく二つのことをお話します。日本語では、私たちの聖徒の交わりという意味になり間違いではないのですが、まず先に知っておきたいことがあります。それは「聖なる事との交わり」です(文法的には中性名詞の聖なる事)。聖であるキリストの出来事と交わり繋がっているから、聖徒の交わりです。
キリストの出来事とは、キリストが為したもう出来事、キリストが主語になって実現している出来事です。それは、①クリスマス以来確かとなったインマヌエル=神が我々と共におられるという出来事、②罪を負って下さった十字架の贖罪の出来事、③「あなたの罪は赦された」と宣言下さる罪の赦しの出来事、④死が私たちの終着点ではない希望を確かにして下さった主キリストの復活の出来事です。
キリストのこれらの出来事は、キリストの側の出来事です。それで、その聖なる出来事が、私たちの出来事になるために不可欠なのが、聖なる出来事との交わり、私たちが聖なる出来事に繋がることです。キリストの体なる教会に繋がることであり、礼拝の恵みに包まれることであり、説教を聴くことであり、聖餐に与ることです。これが、キリストの出来事を受領し受けとめる、聖なる出来事との交わりです。
聖なる出来事は教会の頭なるキリストの出来事であり、教会がキリストの体であるのは、このキリストの出来事が教会に繋がり教会の出来事となるからです。それで教会はキリストの体なる教会と言える訳です。
さて聖徒の交わりについての二番目。使徒信条の日本語の通り(文法的には男性名詞の聖徒)、それは「聖徒の交わり」です。恵みにより召されたる者の集いとしての教会、すなわち聖徒の交わりです。ペトロも語ります。「この約束(賜物として聖霊を受ける約束)は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいる全ての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです」(使徒言行録二・三九)。
キリストが招いて下さった私たちは、礼拝を共にささげてきた私たちです。説教を共に聴き、聖餐に共に与ってきた私たちです。罪の赦しを戴き、共に悔い改め赦し合ってきた私たちです。永遠の命の希望を分かち合ってきた私たちです。賛美と祈りを共にささげてきた私たちです。信仰を共に生きてきた私たちです。
ここから分かる事は、この交わりは、私たちの仲の良さを土台とするものではありません。私たちはキリスト教同好会の集いではありません。そうではなくキリストの出来事の恵みを礼拝ごとに受領し戴いてきた私たちです。交わりとはキリストとの交わりであると共に、この恵みの出来事を分かち合ってきた交わりです。私たちは一人で礼拝をささげているのではありません。キリストの出来事を分かち合う集いです。
洗礼を受けた人たちの交わりの熱心な姿を使徒言行録は四つ記しています。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒言行録二・四二)。この四つは礼拝の姿です。使徒の教えは説教です。相互の交わりは罪贖われて罪を赦して戴いた、これを自分だけでなくお互いの内に見出すことです。パンを裂くことは聖餐です。祈ることとは感謝と賛美も含めて祈りをささげることです。この四つ、礼拝をささげて説教と聖餐を通して恵みに与り、恵みを分かち合い、祈りをささげるのが、使徒言行録の聖徒の交わりの姿です。
使徒言行録は更に二章四三節以下で、聖徒たちの日常の姿を、全ての物を共有にし分け合ったと記した上で、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を以て一緒に食事をし、神を賛美していたとその様子を記します。これは先の四つの事柄と同じですが、一緒に食事をするのも大切な交わりの要素なのでしょう。教会のこれらの聖徒の交わりを続けていくことが、教会の営みの基本にある訳です。
今日の旧約聖書は、イスラエルの民を 「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト一九・六)と語っています。聖なる国民、すなわち聖徒ですが、聖徒とは、自分が聖徒とされればそれでいい、それで済む話ではなく、神様のご計画のために特別に取っておかれる、そのために聖別されるということです。聖徒の使命が与えられることを意味します。そしてその使命は、祭司としての使命です。祭司は人々を神様に執り成すのが使命です。
この点から、教会が地域にあることの意義が見えてきます。地域に向けて何か活動をという話に先だち、まず初めに確認しておきたい意義があります。使徒言行録に戻りますが、それは、先の教会の様子を受けて、民衆全体から好意を寄せられていた(使徒言行録二・四七)とあります。地域に「聖徒の交わり」に生きる集い=教会がある。これは地域の人たちにとって、神の祝福のしるし、希望のしるしになっているということです。このために私たちに必要な事は、基本的な教会の営み祈りに加えて、地域とその人たちを覚えて執り成しをささげる執り成しの姿勢です。この祈りあってこそ、地域への架け橋は実現していくでしょう。
河内長野教会がこの地域に、民衆全体から好意を寄せられていたという仕方であり続ける。これは、この地域に「栄光、神に在れ」と神の栄光を輝かすことです。そして河内長野教会に「行ってみたい」という思いを皆さんが抱くスタートになります。
次週は教会研修会です。主題は「主の恵みの下に、明日を紡ぐ河内長野教会」です。恵みに与る礼拝をささげ、献身の祈りをささげ執り成しをしていく、そのために何をして行けば良いか、架け橋の具体的な形は個々にアイディアを出していく事柄ですが、明日を紡ぐ河内長野教会の姿は、何よりも先ず、聖徒の交わりの姿そのものです。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(使徒言行録二・四二)。