イザヤ五九・二一
ヨハネ一四・二五~二七
順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。今日の主題は三段落目の「聖霊を信ず」です。聖霊が父なる神、御子キリストから私たちへの架け橋になっていることを主題に語ります。
私たちは課題に直面したり気持ちが落ち込んだりした時に、自分に対しても相手に対しても、よくこう言って励まします。「神様が共にいて下さるから大丈夫」。インマヌエル、神は我々と共におられる。これは福音の大事な使信です。
けれども、例えば詩編記者はこう言う。私を苦しめる者は私の骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。「お前の神はどこにいる」(詩編四二・一一)。こう嘲って言われて信仰者自身がうなだれ呻いている。あるいは、信仰者の自分の言葉として、あなたの始めからの慈しみはどこに行ってしまったのでしょうか(詩編八九・五〇)と問いかけている。
ここから私たち信仰者の抱える大きな課題があることが分かります。神様のお姿が見えない、御声が聞こえない。だから「インマヌエル、神は我々と共におられる」と信じる事が揺らぐということです。
パウロもこう言っています。生きることと死ぬことの、二つのことの間で、板挟みの状態です。この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方が遥かに望ましい(フィリピ一・二三)。このパウロの言葉、これを反対側から見ると、この世ではキリストと共にいることが曖昧だということです。パウロ自身、この時は獄中でした。後に殉教の死を遂げていく訳ですが、その時、キリストが共にいて下さるのか、思ったに違いない。もちろんパウロは神が共におられる信仰は揺らがないに違いない。なぜそう言えるかというと、クリスマス以来キリストはこの世の歴史に登場した。神がおられることを信じる事は単なる思い込みではなく、この世の歴史に起こった事実です。キリストはかつてこの世に現れました。けれども、天にあげられる時には雲に覆われて見えなくなり(使徒言行録一・九)。そして天の神の右の座におられる。でも自分はこの地上にいる。キリストはいずれ終末の時には再臨なさると信じるけれども、自分は今生きている。地上の今、キリストのお姿も御声も聞こえない。共におられることを実体験できない。
空間的に言えば天上のキリストとこの世の地上の自分、時間的に言えば終末時に再臨なさるキリストと今生きている自分、各々間には無限の距離がある。だからパウロも「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」と語る訳です。
そこで、この無限の距離の架け橋になって下さるのが聖霊であり、その働きです。とは言え、聖霊は何か捉え所がありません。父なる神については「未だかつて、神を見たものはいない」と言いつつ「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」(ヨハネ一・一八)とあって、この世に来られた歴史のキリストを見れば、父なる神様のことは分かる。キリストのことについては「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことを悉く思い起こさせて下さる」(ヨハネ一四・二六)とありますように、聖霊がキリストのことを示して下さる。しかし、聖霊については教えてくれるものがない。使徒信条も、父と御子については説明の文章がつきます。天地の造り主全能の父なる神、また、その御子、聖霊によりて宿り処女マリヤより生まれ…と説明が続きます、でも聖霊は、聖霊を信ず、だけです。敢えて言えば、聖霊を信じる事によって、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信じることが出来る、ということを語っていて、聖霊そのものの説明はありません。それで聖霊は捉え難い訳です。聖霊が降ってきたとか満たされたとかの実感もない。そういう方が多いと思います。
けれども、実感がなくても心配は要りません。私たちの知らない内に、気付かない内に聖霊は働いておられます。パウロが語っています。聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」とは言えない(Ⅰコリント一二・三)。反対側から追えば、私たちが信仰の告白をしたということは、聖霊のお働きがあったお蔭だ、ということです。またこうも語ります。霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ五・二二)。愛も喜びも、信仰者であると否とを問わず、聖霊の働きかけがあってこそなのですね。イザヤも預言します。あなたの上にある私の霊、あなたの口に置いた私の言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる(イザヤ五九・二一)。誰にでも聖霊は注がれている。聖霊が架け橋になって、キリストも共におられます。
主イエスは「私は去って行くが、また、あなた方の所へ戻ってくる」(ヨハネ一四・二八)と言われました。これは通常、十字架に架けられ去って行くが復活して戻ってくる、という意味でもあり、また昇天して去って行くが終末時に戻ってくる、という意味にも理解します。主イエスが戻ってくるという意味ではその二階ですが、聖霊を視野に入れると、主イエスの天に上げられた後、聖霊として戻ってくる、と理解出来ます。
キリストが共におられる。聖霊が降られる。このことを私たちの側が知るのは、聖霊を信じる信仰と祈りにおいてです。聖霊は気付かない内から働き、注がれているけれども、それを私たちが受けとめるのには、信仰と祈りが必要です。
パウロは、一方では、この世を去ってキリスト共にいたいと熱望しました。が、他方では肉に留まる方があなた方のためにもっと必要です(フィリピ一・二四)と言って、この世で生きる使命を大切に受けとめました。困難な中でパウロ自身が務めを果たし、また教会が建てられていくことに仕えていく。そのことのために、一番深い所で必要だったことは何か? 神様の側からの聖霊の支え、導きです。そしてパウロの側から言えば祈りなしには歩めなかった。聖霊の導きを信じ受けとめる祈りです。
河内長野教会と私たちもまた、聖霊の導きと、それを受けとめる祈りがあってこそ、主が共におられることを確信し、この歴史、地上の営みを支えられながら導きを戴いて歩んで行けるに違いありません。