イザヤ 六・五~八
コロサイ一・一八
順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。今日の主題は三段落目の「我は聖なる公同の教会を信ず」です。そして今日は「見えないものを見えるものを通して見る、触れる」という視点から教会を信じる事に思い深めて行きたいと願います。
見えないもの、それは何より神様ご自身です。先週も引用しましたが、未だかつて、神を見た者はいない(ヨハネ一・一八) 訳です。それなのに私たちは神様はおられると信じ告白しています。何故そう言えるのかというと、父の懐にいる独り子である神、この方が示されたのである、すなわちイエス・キリストのことです。御子は見えない神の姿(コロサイ一・一五)という聖句もあります。この主イエスがクリスマスから昇天に至るまで歴史の中に、そのお姿を私たちに見させ、私たちに御手を触れ、その御声を聞かせて下さり、そういうお方として登場なさったので、見える主イエスを知って見えない父なる神を見、神がおられると信じる。
でも、その主イエスは天に上げられ今は天の神の右に座しておられる。私たちには見えなくなった。そのような私たちにペトロは言います。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています(Ⅰペトロ一・八)。こう語って、今の私たちがキリストを見たことがない、それを認めています。先週、婦人会・壮年会の例会で山上の説教の冒頭部分の九つの幸いについて聖句を黙想しました。その中に「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ五・八)とありました。それは私たちに清い心があれば神を見ることが出来る、ということだろうか。私たちの側の心の清さを主イエスは語っておられるのではない。主イエスはこう言われたのでしょう。「独り子なる神、私が神を示すから、清い私を見て父なる神を見るのです。それが清さですよ」。でも人々は、主イエスに神を見出せないまま、十字架につけてしまいました。
主イエスが神の独り子であり父なる神をお示しになっておられる、そう信じられるようになったのは主イエスが天にあげられてからです。つまり聖霊降臨以降です。聖霊を受けて見えない御子キリストを見る事が出来る。
でも、聖霊は私たちには見えない。そこで聖霊降臨で代わりに生じた出来事が教会の誕生です。天上におられるキリストと地上の教会は繋がっている。その繋がりを表現しているのが、御子はその体である教会の頭です(コロサイ一・一八)の表現です。御子キリストは教会の頭、教会は御子キリストの体です。
使徒信条は「聖霊を信ず」の次に「教会を信ず」と続けます。聖霊を信ずるとは教会を信じることなのだ、と言っているようです。でも教会は神様ではありませんから、聖霊を信じる事と教会を信じる事は同列ではありません。信条の語るのは、教会を「聖なる公同の教会」にしている聖霊を信ず、ということです。
使徒信条は教会をまず「聖なる教会」と告白します。頭なるキリストと繋がっているから聖なる教会です。それは信じる事柄です。何故なら、時に現にある見える教会が余りに人間の集団としてゴタゴタあって罪深く、およそ「聖なる教会」とは言えない、と思える時があるからです。けれども聖であられるのは誰よりもキリスト御自身です。この見える教会にも見えないキリストが満ちておられる(エフェソ一・二三参照)。人間の姿に躓かない、教会を信じる信仰を与えられる者は幸いです。
預言者イザヤは、神様の聖であられることに触れた預言者です(イザヤ六・一~)。それはウジヤ王の死んだ年(紀元前七四二)でした。ウジヤはおよそ四十年に亘り王として南王国ユダを治めました。この時期、ユダの国は繁栄しました。その王が亡くなり、二十年後には北王国イスラエルを滅ぼすアッシリアが台頭し、世界が転換期を迎えていた時代。これまでの民を導く有能な指導者が亡くなり、これからどうなっていくのだろうと不安定な時代を迎えていた訳です。
教会もまた繰り返しこれまで教会の信仰を体現してきた先達の人たちを天に送り、これからどうなっていくだろう、同じ思いを持ちます。
その様な中でイザヤは神殿で礼拝の体験をします。まず、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。天使でしょうか、恐らく二人のセラフィムがいて互に呼び交わしている。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地を全て覆う」。万軍の主なる神の聖なる事にまみえます。そして次に二番目の礼拝体験です。罪の自覚です。イザヤは思わず言います。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」。聖の反意語は汚れです。聖なる神にまみえると自らの汚れを思う。イザヤは、神の聖なる事にまみえて汚れた自分を見出し、滅びるばかりだと自覚する。そして三番目に「しかも、私の目は、主なる万軍の主を仰ぎ見た」。これは神を見ることの出来ないまま滅ぼされる。それで終わるのではない、主を仰ぎ見ることが許された。
そして礼拝における四番目の体験が、罪の赦しです。するとセラフィムの一人が、私の所に飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。見える炭火に触れて、見えない罪の赦しを知る。
これは私たちの礼拝でいうと説教と併せて聖餐体験です。福音を理解し福音の出来事に触れる。主イエスが十字架の祭壇でご自身を献げられた、その御体と御血潮を、私たちに差し出して下さる。私たちはそれを戴くことによって、咎は取り去られ、罪は赦された。今日は世界聖餐日です。全世界の教会がキリストの一つの聖餐に与り、全世界の一つの教会であることに思いを重ねます。そしてこの教会に私たちは、恵みにより召される、呼び出される。キリストがお招きになる、教会はそういう集いです。
使徒信条は教会を「聖なる」に続けて「公同」と言い表します。公同とは言葉で言うと普遍的という意味です。いつでもどこでも通用する普遍的教会ということです。普遍の内容はキリストがご臨在しキリストと出会う教会ということです。その集いの私たちは、キリストにより罪赦されます。
そして礼拝体験の五番目。その時、私は主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。祝福と派遣です。イザヤは応答しました。「私がここにおります。私を遣わして下さい」。今日は世界宣教の日です。キリストによって宣教師へと招かれ派遣される、日本人も含む世界の宣教師とその働きに思いを向けます。
公同というのはキリストのおられる教会が教会であるということです。教会はキリスト教徒の同好会の単なる人間の集まりではありません。招かれて派遣される、信仰者として生きる者の群れです。按手を受けた世界の宣教師だけではありません。私たちも普通に生活している日常世界に派遣されています。招かれて礼拝をささげる私たちの見える姿を通して、見えないキリストを示している。祝福を戴いて派遣されて信仰者として生きる見える私たちの姿を通して見えないキリストを示している。その礼拝者として生きる姿は、必ずしも、いかにも聖なる立派な私たち自身の姿であるとは限らない。破れがあり汚れがある。破れや課題を抱えながら礼拝に向かって一週間を歩み、礼拝で聖なるキリストに出会い聖餐にてキリストに触れ咎を取り去られる。そしてその礼拝から派遣されて一歩を踏み出し五つの礼拝体験を身に帯びて生きる。一週間は「礼拝に向けて」と「礼拝から」の歩みが重なっていますが、その姿は先ほどのペトロの言葉をもう一度用いるなら、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜び、この喜びがどこか滲み出てくるそういう姿です。