日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年9月6日 説教:森田恭一郎牧師

「陰府にさえ、救いの恵み」

詩編三〇・一〇
マルコ一五・三三~三四、四四~四六

この夏、順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。

さて今日の主題は、二段落目の「死にて葬られ、陰府にくだり」です。この言葉がその直前の「十字架につけられ」を受けて何よりもまず語っているのは、主イエスは死なれた、ということです。

ポンテオ・ピラトはわざわざ主イエスの亡くなられたことを確かめています。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめた上、遺体をヨセフに下げ渡した(マルコ一五・四四~)のでした。ピラトは主イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思ったとあります。どうして不思議に思ったのだろうか。無実であることを承知の上で、主イエスに十字架刑を言い渡したので、ピラト自らの罪の呵責を感じて、生き残って欲しいとでも思ったのでしょうか。あるいは、ユダヤ人の王と聞いて、簡単には死なないのではとでも思ったのでしょうか。でも事実、主イエスは死なれたのでした。

 

主イエスの死は、ただ死なれたのではありません。十字架刑です。全ての人の罪を背負って、その裁きを受けて死なれたのでした。その死に直面したとき、主イエスは大声で叫ばれました。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ一五・三四)。アラム語で主イエスの肉声をそのまま記録に残すほど、聞く者の耳に、いや心に焼き付く言葉です。その意味は「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

これはただの死ではない。ただの刑罰死でもない。人はどのような最期を迎えるにしても、心の奥底で「神様!」と思うに違いない。でも主イエスの十字架の死は、その神様から見捨てられる。人間には直面できない、死のとげ(Ⅰコリント一五・五五)がある死です。敢えて言うと、主イエスは、神の御子だからこの死に直面出来た。この刺のある死を負うことが出来た。クリスマスに神がこの世に降り、神が十字架で亡くなられたのです。

 

そして主イエスは葬られました。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入口には石を転がしておいた(マルコ一五・四六)のでした。しかし、主イエスが納められた墓、その墓の先は、神がお見捨てになった、神のおられない、そういう場所でした。使徒信条はこの場所を「陰府」と言います。

旧約時代の人々にとって、信仰は地上を生きるためのものでした。死んだ後のことについては、語りません。私が死んで墓に下ることに、何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのマコトを告げ知らせるでしょうか(詩編三〇・一〇)。人は死んだら塵に帰る。塵になったら神様への感謝もささげない。

私たちは葬儀を執り行い、火葬に立ち会うとき、亡くなられた故人は天国に招かれた、と信じることが出来ます。思えば、何と有り難いことでしょう。死んだらどうなるのか、私たちには分かりません。でも信じる事は出来る訳です。

 

ペトロは信じました。主イエスが亡くなられた後、どこへ行かれたのか。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らえられていた霊たちの所に行って宣教されました(Ⅰペトロ三・一八~)。ここで、人は死んでも霊魂は残る、ということを言いたいのではありません。ペトロが言いたいのは、神であられるキリストが死んで陰府にまで降られて、死の力に捕らえられていた死んだ者たちの所に行って宣教なさった。だから、キリストは肉では死に渡されましたが、キリストは死んでそこで終わったのではなかった、ということです。そして私たち、死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きる者となるためなのです(Ⅰペトロ四・六)。人生は死で終わりではない。ペトロが信じてこう言い切れるのは、復活の主イエスに出会ったからですが、私たちも信じて同じように言い切る者とされているはずです。

 

一般の日本人は、信仰を勧める宣教師や教会に対して、先祖の救いについて問いかけます。日本の私たちは先祖を大切にし、お墓参りを欠かせない行事としていますが、福音に触れることなく信じないまま亡くなった先祖の救いについて、教会の考えを問う。そこで教会が「信じなければ救われない」と語るなら、日本人は失望するでしょう。

私たちは考え方を整理すべきです。信じるのは、信仰によって生きるためです(ハバクク二・四参照)。 救われるのは恵みによってです。信仰によってではありません。救われている事実を受けとめるのには信仰が必要ですが、救いそのものは、キリストの恵みによります。そして救いの恵みは、地上に生きている間でも死んだ後でも、恵みであり続けます。パウロも信じました。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです(ローマ一四・九)。

 

使徒信条が主イエス・キリストが「死にて葬られ、陰府に降り」と語る意義は大きく二つ、まずキリストの死については、陰府に降り既に亡くなられた者も含めて全ての人の罪を贖い、罰を負いたもうたこと。そしてその結果、私たちの死については、神に見捨てられる裁きとしての死ではなく、キリストを主としてあがめる天国への入口となったことにあります。

福音を宣べ伝える教会が、主イエス・キリストは、死んだ人にも生きている人にも全ての人の救い主、主であられることをしっかりと受けとめて人々に福音の橋をかけ、日本伝道に新たな展開を望み見、日本の全ての者が祝福に与るように、と願います。

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