日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年8月23日 説教:森田恭一郎牧師

「神います、我らと共に。そのしるし」

イザヤ七・一四
ルカ 二・一〇~一二

この夏、順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条、冊子に載っています。教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。

今日の主題は二段落目の「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生れ」の箇所です。

 

先ほどの旧約聖書に 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ七・一四)とありました。インマヌエルというのは「神は我々と共におられる」という意味です。

皆さんは、神様がおられる、しかも遠くのどこかにではなく、私たちと共に一緒にいて下さる、と信じられますか。この問いかけは昔からありました。特に苦しいときに、助けを求めるときに。昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。「お前の神はどこにいる」と(詩編四二・四)。辛いときに、周囲の人たちが信じる人たちを馬鹿にして問いかけてくる。また、信じる人たちさえも、主よ、あなたの始めからの慈しみはどこへ行ってしまったのでしょうか(詩編八九・五〇)と呻くように助けを求めて問いかけています。

そしてイスラエル宗教、後のユダヤ教は、石などを刻んで像を造ってはならない、と定めていますので、尚さら、神様のお姿って見えません。御声も聞こえませんから、本当に神様なんているの? その問いかけは、信じる人にも信じない人にも耐えず湧き上がってきます。それで世界の諸宗教は神様の像を石や木で造ったりします。

 

それで像のない中で聖書の神様は、神様が共にいる「しるし」を与えましょう、と言うのです。先ほどのイザヤ書、その前にこう書いてあります。それ故、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。それで、見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。神が共におられる見えないインマヌエルのしるしとして「おとめが男の子を産む」。おとめが男の子を産んだら、これがインマヌエルのしるしだよ、と言って下さったわけです。そして処女マリヤに生まれた男の子、イエス様が、神が共におられるしるしとして生まれました。

通常、しるし=シンボルは、本体を示すしるしです。例えば、どこかに旅行に出かけて教会を見つけたとします。「あれは教会だ」。どうしてそれが分かりますか? 十字架があるから教会だと思えます。建物にある十字架は「ここは教会です」というしるしになっている。あるいは、十字架のキリストを信じている信仰のしるしになっています。河内長野教会も建物に立っている十字架が教会であることのしるしになっています。この説教壇にも十字架がデザインされていて、教会の信仰のしるしになっています。しるしであって建物にある十字架は教会そのものではありません。十字架のデザインは信仰そのものではありません。信仰を表すしるしであって本体ではありません

 

皆さんがよく知っている聖書から、もう一つしるしを思い起こしてみましょう。主の天使が高らかに告げました。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」(ルカ二・一二)。

マリアとヨセフは、天使から告げられていたので生まれてきた赤ちゃん、乳飲み子が神様の御子である事は分かります。ここに神が共におられるとが分かります。天使から知らされていましたから。でも他の人は分かりません。

それでクリスマスの晩、天使が羊飼いたちに、しるしを教えてくれました。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(=キリスト、救い主)である。それで、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけたら、この赤ちゃん、乳飲み子がキリストだと理解して下さい。飼い葉桶そのものは、ただの飼い葉桶です。でも飼い葉桶がここにキリストが生まれたしるしになっています。

そして、その男の乳飲み子が「神が我ら共におられるしるし」になっています。飼い葉桶→乳飲み子→インマヌエル=神が我々と共におられる。ただ、通常のしるしと異なるのは、そこに寝ている乳飲み子はただのしるしではありません。神の御子、そのもの、本体です。それで、インマヌエル=神は我々と共におられる、このことを私たちは聖書を通して信じることが出来ます。

 

飼い葉桶のしるしがなかったら、その乳飲み子はただの男の赤ちゃんです。その男の子が実は救い主であり、神が共におられる神ご自身である、これは、実は信じられないほど大きな驚きなんです。仏教でもない、イスラム教でもない、ユダヤ教でもない、キリスト教だけの特色、特異点です。

使徒信条「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生れ」の信仰告白の文章は、この特異点を明らかにしています。二つ語っています。

まず一つ目は、飼い葉桶のしるしなしには、ただの普通の乳飲み子に見えるこの男の子が、聖霊によって宿った救い主、それに加えて神の御子、神ご自身である(イザヤ四五・二一~二二参照)、と告げています。そして二つ目は、神様ご自身でありながら、マリヤから生まれて体を持った私たちと全く同じ人間であられる(ヘブライ二・一七~一八、四・一五参照)。霊であられる神が体を持つ、これを肉となる(ヨハネ一・一四)受肉と言ったりもします。

神学用語でキリスト両性論、神性と人性の両方を持っている。人性だから我らと同じ痛みや苦しみを経験しておられて「我らと共に」おられます。そして神性だから神様と同質の救うことのお出来になる救い主として、我らと共に「神が」おられる、ということになります。

このことを信じる事が出来たら「処女」から生まれたというのは信じることが出来ます。

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