日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年8月9日 説教:森田恭一郎牧師

「独り子に恵と真理、満ちていた」

創世記二二・九~一三
ヨハネ 一・一四~一八

この夏、順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条、冊子に載っています。教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に告白=同意しています。

今日の主題は二段落目の最初「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」の初め、そのというのは父なる神様、その独り子を信ず。主イエス・キリストは父なる神の「独り子」である。これが今日の主題です。独り子、それはたまたま一人っ子だったということではありません。元々この方だけです、という独り子です。

 

皆さん、神様って本当にいると思いますか。会ったことのある人いますか。お寺に行くと仏像がある。あれは人間が木で造った工芸品です。魂を入れる儀式があるそうですが、入魂したのならば語ったり動き出したりして欲しい、と思います。

日本では古来八百万の神といって、この世界の全てのものに神々が宿っていると言われたりします。また神社も沢山あって、中には、例えば合格祈願の神社があったりします。生きているときに頭の良かった人が死後、上に向かって神になり神社に祀(まつ)られていたりします。これは、こんな神様が居てくれればいいなぁという人間の願望を映し出した神々だと思いますが、皆さんはどう考えますか。

ヨハネ福音書は、未だかつて、神を見た者はいない(ヨハネ一・一八)と語っています。

そうであるならば、教会の人たちは神様を信じているけれど見たこともないのに、どうして信じられるのか、信じると言った所で、思い込んでいるだけではないですか、神様がいると言い切れる理由や根拠は何ですか、と思われることでしょう。

 

そこで独り子です。この独り子だけが父の独り子としての栄光を輝かしています。その栄光の中身は、恵と真理とに満ちていた(ヨハネ一・一四)というものです。そのようにして父のふところに入る独り子である神、この方が神を示された(ヨハネ一・一八)のです。見たこともないのに神がいらっしゃると思い込みではなく信じて断言できるのは、父なる神様の独り子であられるイエス・キリストが天から下に向かって地上へと降って来て、それがクリスマスの出来事です。元々、天におられた神様ご自身であり霊である独り子が、言葉は肉となって(ヨハネ一・一四)受肉して人と成られて、私たちにそのお姿を示された。歴史の中に存在した。それが主イエス・キリストです。地上に降りてこられ歴史の中に現れた神、これは歴史の事実、出来事ですから、思い込みでなく、これを根拠に信じることが出来ます。

福音書ひいては新約聖書は、主イエス・キリストと出会った人たちの証言記録です。作り話や神話ではなく、事実の証言記録です。全く私たち人間と同じように誕生し歴史の中に生活されたマコトの人でありながら、しかしただの人ではない、この方は同時に受肉されたマコトの神様だ、と自分たちの思いを遥かに超えて、出会ってしまった人たち、その人たちの証言記録です。

新約聖書を記したこの人たちは最初は戸惑い、一体この方は誰?と問いを持ちました。意味ある問いは、大事な答えを導きます。その答えの一つが、この方は父なる神の独り子、神様ご自身だという答えです。

それから、父-子という言い方から、親子なのかと思われるかも知れませんが、そうではありません。父と子は同質の神ご自身です。それでいて二人の神ではありません。その説明は省きます。当時の一般的な考えとして、ある人のことを一番よく知っているのはその子どもだと考えられていたそうです。それで見えない神様のことを一番よく知って紹介出来るのは、その子だということになった訳です。それで父-子と言い表しています。

 

旧約聖書から創世記の記事を読みました。神様のご命令を受けたアブラハムの記事です。本当はじっくりと解説も含めて読みたい記事ですが、今日は省きます。でも聖句そのものを味わって聴いて戴きたいと願います。

神は命じられた。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記二二・二)。

神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私にささげることを惜しまなかった」。アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた(同九節~)。

誤解のないように一つ言っておきます。聖書の宗教は、自分の子ども殺して神様に捧げなさいと語る宗教ではありません。イスラエルの人たちが地元宗教の風習に従って人身供養をするようになった時、神様は悲しみ、お怒りになりました。彼らは聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私(=神様)は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない(エレミヤ七・三一)。

ですから先ほどのアブラハムも息子ではなく代わりに雄羊をささげたのでしたね。

父なる神の独り子は十字架につけられ死なれたのでした。その時、代わりの雄羊はいなかった。むしろまるでこの雄羊のように私たちの代わりに死なれたのです。独り子としての私たちのための恵みと真理の御業です。

 

主イエス・キリストのお姿、教え、生き方に触れながら、素晴らしい人だ、というだけでなく、父なる神様の独り子だと信じられるようになったのはどうしてか。不思議な出会いがあったから。その出会いは、この方は何も悪いことをしていないのに、最期には犯罪人として十字架にかけられ、三日目に死人の内から甦られた。本当だったら自分がその罪を裁かれる所だったのに、代わりに罰を受けられて死なれた。そして復活してこられた。その神の独り子としての御業と、甦られて「お前のせいで死んだんだぞ」と責めるのではなく罪を赦して下さった。一人ひとりの出会いがある。

十字架と甦りのこの出来事に、恵みと真理に満ちていた父の栄光を、人々は見、証言しました。恵みと真理に満ちていた父の栄光を、この歴史の中で体を以て現し示すことが出来たのは、独り子なる神、イエス・キリストのみであった訳です。

 

この後、聖餐式というキリスト教会独自の儀式があります。小さなパンを食べ小さな杯からぶどうジュースを飲みます。教会の私たちは、そのパンをこの私のために十字架で裂かれたキリストの体、ぶどう液をこの私のために十字架で流された血潮と受け止めて、戴きます。意味を込めたパンと杯です。ですから、そのことをまだ公に信じていない方たちは、手に受け取らないで下さいね。意味を知り、公に信じて、受け止める、ここにキリストがいましたもう出来事のパンと杯です。

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