使徒言行録一・七~一一
使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。
さて今日の主題は、二段落目の「天に昇り、神の右に坐したまえり」です。イエス様は十字架につけられ、死んで、三日目に死人の内より甦られてから、弟子たちに現れ、天に上げられました。カード(今年度版No24)を見て見ましょう。
弟子たちの見ている前で、イエス様はスーッと上げられて、雲に覆われて彼らの目から見えなく(使徒言行録二・九)なりました。祝福しながら(ルカ二四・五一)彼らを離れ、天に上げられました。雲に覆われて見えなくなりましたが、雲のない良く晴れた日だったら、ずうっと見てられたのにね。聖書で雲というのは、神様がおられるしるしです。旧約聖書にも、主は雲の内にあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された(出エジプト記三四・五)。「私は神様だぞ、ここにいるぞ」と宣言されたのですね。モーセに対しては神様が降って来られた時、雲が沸き上がってきました。今日の所ではイエス様が挙げられていく時に雲が覆いました。
雲に覆われて見えなくなってどこへ行かれたのですか?と問いかけるなら、神様の所へ上げられました、ということです。またイエス様はどこにいらっしゃるのですか?と問いかけるなら 今は、神の右に並んで坐しておられます、と答えます。
イエス様は神の右の座で、ただ座ってくつろいでおられるのか、というとそうではありません。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるイエス・キリストが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです(ローマ八・三四)。執り成すとは、イエス様が父なる神様に私たちを取り次いで下さるということです。地上の私たちをご覧になりながら「この人は今とても苦しい中にあるので、支えてあげて下さい」。またその人の祈りを父なる神様にお届けするということです。皆さんもお祈りの終わりに「イエス様のお名前によって祈ります」と祈るでしょう。こう祈るとイエス様がちゃんと聞き取って、父なる神様に届けて、私たちに聖霊を送って下さいます。「私がいる。大丈夫だよ」。先ほどは雲でしたが、今の私たちには聖霊を送って下さいます。
エフェソ書にある神の右の座に「着く」(エフェソ一・二〇)は、聖霊降臨の日、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に「留まった」(使徒言行録二・三)と同じ単語です。「イエス様は天にあげられ雲に隠れて見えなくなって、もう私たちの所にいない」というのではなくて、イエス様が神の右の座にお着きになられたら、同時に併せて、地上の私たちには聖霊を下さる。聖句カード(二〇二〇年度版No30)を見てみましょう。
上から下へと爽やかに風がまるで虹のように吹いています。聖霊が降り教会が誕生します。そして、教会に集う人たちは上を見上げて喜んでいます。イエス様の祝福を受け、神様の愛が注がれているからです。聖霊なる神様を通してイエス様が私たちと共にいて下さいます。天に上げられたイエス様は、「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四・六)と言われ、天の父なる神様への道となられました。虹は天と地を繋ぐ道のようにも見えます。教会の礼拝で聖霊なる神様を通して、私たちもイエス様と共に天への道を辿ります。