日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年8月16日 説教:森田恭一郎牧師

「たたえよう、イエス・キリスト、救い主」

フィリピ二・六~一一

この夏、順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条、冊子に載っています。教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に告白=同意しています。

今日の主題は二段落目の最初「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」の途中、我らの主イエス・キリスト。イエス・キリストというのは、名前と苗字ではありません。例えば、牧師の森田先生というのは、森田さんは牧師で私の先生です、ということになります。

「我らの主イエス・キリスト」というのも、イエス様は私たちの主でありキリスト(=救い主)です、と言い表していることになります。そしてその真ん中に、イエスというお名前がある。お名前ですから「イエス様」と呼びかけることが出来る。

 

今から名前を呼びますので返事して下さい。○○さん、ハイ。○○さん、ハイ。実は教会は、イエス様が一人ひとりの名前を呼んで下さり、返事をして皆さんがここにいる、という場所です。名前ってその人だけの大事な名前ですね。

ある収容所、人を人とも思わない、だから名前なんかどうでもいい、でも何かないと呼ぶのに困るから番号をつけて番号で呼ぶ。名前と番号、同じでしょうか? 全然違います! 名前は呼ぶのに無いと困るからと付けられた記号ではありません。名前にその人の人格が込められています。

その人を知っている人は、その名前を見れば、顔が浮かぶ。友人だったら毎日のやり取り、親しい人だったらその人の歴史、人生の歩みを思い起こします。名前を呼ばれてその人だけが「ハイ」と返事をします。名前は、その人の人生とその人自身、その人だけの人格そのものです。

沖縄の平和の礎は、軍人民間人、敵味方関係なく沖縄戦で亡くなられた人々の名前を刻んでいます。広島や長崎では今年もこの一年で亡くなられた原爆死没者名簿を収めます。名前を記します。でも単なる名前ではない。その人生、人格が込めている。遺族にとっては尚更のこと、その人を表すその人だけの大事なお名前です。

 

「イエス」もお名前です。お名前を聞くと、新約聖書からイエス様を知ることが出来る。新約聖書は実際に主イエスに出会って信仰を戴いた人たちが記した文章です。イエス様のお顔を知っている、お言葉が耳に残っている。お働きも覚えている。十字架に付けられ、三日目に死人の内から甦られたイエス様に出会った。そういう人たちが残した記録です。

 

トマスという弟子がいます(聖句カード二〇〇三年度No5)。他の弟子たちが甦りの主イエスに出会った。その話を聞いてトマスは、十字架にかかって死んだ「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ私は決して信じない」(ヨハネ二〇・二五)と、死人の内からの甦りなんてあるものか、と頑なに信じません。信じられなかったのです。そしてその次の週の日曜日、主イエスが現れて、御自分の手の釘跡をお見せになりました。トマスは確かに見ました。甦ってこられたイエス様です。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、主イエスは頑ななトマスを迎え入れました。トマスは「私の主、私の神よ」と思わず答えました。甦りのイエス様に出会ったとき、ただ「イエス様」ではなくイエス様のことを「私の主」と告白したのです。この告白の言葉に、トマスはきっと「救い主」という思いも込めていることでしょう。

 

ペトロという弟子がいます(聖句カード二〇〇三年度No7)。ガリラヤ湖で魚を獲る漁をしていた時のことです。でも全然獲れなかったようです。甦りのイエス様が岸辺に立っておられました。するとイエス様が「舟の右側に網を打ちなさい」。その通りにすると魚が沢山獲れました。初め誰も分からなかったのですが、ある弟子が「主だ」(ヨハネ二一・七)。それを聞いてペトロは湖に飛び込みました。お甦りのイエス様に出会って「主だ」とみんな分かったのでした。

 

それでイエス様は「我らの主」です。教会はイエス様を主と告白します(聖句カード一九九九年度No29)。主というのは主人という意味。でも奴隷をこき使うような主人ではなく、あなたは私のものだ。だからあなたを見捨てはしない。大事にする。そして親しみを込めてあなたの名を呼ぶ。忘れることはしない。そういう「主」です。

 

そして、全ての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです(フィリピ二・一一)。私たちは、神様をたたえる礼拝の場に招かれています。今日のフィリピ書六節以下は、当時の教会礼拝で歌われた賛美の言

葉であったのではないかと言われています。私の安息日を守り、私の聖所を敬いなさい。私は主である(レビ記一九・三〇)。この旧約聖書の言葉を言い換えますと、日曜日の主日を守り礼拝を大切にしなさい。私は主である。この大切な礼拝で、イエスは主である、と主をたたえます。

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