日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年2月19日 説教:森田恭一郎牧師

「神の独り子」

詩編一一八・二二~二三

マタイ一六・一五~一九

 

私たちの告白する使徒信条は「父なる神」を信じる第一項目に続いて、「御子なる神」を信じる第二項目になります。父なる神様というのは誰に対して父かと言いますと、まず神の御子イエス・キリストに対して父です。そして私たちはただの人間、しかも罪人でしかないのに、私たちが神を「父よ」と呼ぶことが許されているのは、御子キリストが私たちを弟、妹にして下さったからです(ヘブライ二・一一参照)。

その上で今日は「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」です。まず、主イエス・キリストというのは、苗字と名前ではありません。丁度、皆さんが私を牧師の森田先生と呼んで下さいます。それは、森田という人は先生で牧師です、という意味です。それと同じく「イエスという人はキリスト=救い主で主です」という意味です。そのように主イエス・キリストと告白します。イエスは私の救い主、私は主の奴隷、仕え人です。

 

主イエスは弟子たちに問いかけました。 「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」(マタイ一六・一五)。この問は、キリスト教信仰にとって決定的な問です。洗礼を受けるとき、漠然と「私は神様を信じます」では駄目です。「このイエスを神の御子、私の主イエス・キリスト」と私は信じますと告白出来なければならない。       イエスを目の前にした当時の誰にとっても、イエスは人です。主イエスがお育ちになったナザレにお帰りになって会堂で教えると人々は驚いて言いました(マタイ一三・五三~)。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」。このように人々はイエスに躓いたのでした。ここで故郷の人々は驚いています。どこで勉強してきたの? ナザレの田舎育ちのただの人なのに。自分たちは生まれたときからイエスを知っているよ。オムツも替えてあげたこともあるあのイエスでしょ。どう見てもただの人。ナザレの人たちは、まして使徒信条の告白するように神の独り子なんてサラサラ考えない。躓くというのは、期待外れ、期待以下と通常、私は説明しますが、ここでは期待以上過ぎて躓きます。                          この躓きは故郷の人たちにとってだけの躓きではありません。パウロが言いました。私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの(Ⅰコリント一・二三)。ナザレのイエスを知っている故郷の人々、また十字架につけられて死んだイエスを知っているユダヤの人々にとって、この人間イエスを神の独り子キリストと信じるだなんて思いもよらないことでした。まして神以外の者を神としてはならない十戒を厳守するユダヤ教の信仰からすれば、絶対に受け入れることは出来ない事でした。それで、人間イエスが神の御子であるということに躓いた。この躓きを突き詰めると、地上に生まれ地上に生きた歴史上の人物なのだからイエスは神ではないということになります。もちろん、キリスト教はこの考え方を異端として退けます。

 

けれども、他方、その反対の考え方も出てきました。キリストは救い主、救い主たる者は当然、人間ではない、という考え方です。神であるお方が、この世に生まれ死んでいく、まして最期、十字架で死んだなんてあるはずがない、それは愚かな考えだ……。パウロもこれを指摘しています。私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、そして続けて、異邦人には愚かなもの。もちろん、キリスト教はこの考え方も異端として退けます。

 

キリスト教は、歴史上のイエスを神と信じ、キリストを歴史に来られ十字架で亡くなられた人間であると信じます。それを「マコトの神、マコトの人」と表現します。これは、ニケヤ・コンスタンティノポリス信条(紀元三八一年)で「イエス・キリストは父と同質」と告白して三位一体の神を告白して、これを受けてカルケドン信条(四五一年)で「神性によれば御父と同質、人性によれば我らと同質」とキリストの両性(神性と人性)を告白して、キリスト教の基本的信仰の立場を明らかにしました。イエス・キリストをただ人である、ただ神であると一方だけを告白するのは、言ってみれば容易です。でもそれを、神であり人であると同時に告白するのは簡単ではありません。中近東からヨーロッパに伝わったキリスト教信仰が、神の御子、主イエス・キリストと告白し、更にははっきりと神性と人性を同時に告白するに至るまで四百年以上かかっています。イエス・キリストが同時に神であり人であるというのは、人間の論理を越えていて捉えきれない不思議さ、神秘性を帯びているからです。新約聖書で詩編一一八編を引用して、驚き、不思議と強調するのも分かります。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には(驚くべきこと)不思議に見える」(詩編一一八・二二~二三、マタイ二一・四二他)。                            日本にプロ手スタン信仰が伝えられて、まだ二百年になりません。未だ、人口の一%未満。信じる私たちも、どれだけ心の奥底から「マコトの神、マコトの人」と告白しているか、意外と難しいのかも知れません。                一方において例えば、イエスが神の御子であられることを否定して、イエスは最高の人間だったのだ。生まれながらにして知恵があり、特別な力を持ち、最期は人々のために十字架に付くことさえ出来る愛の人だった。我々もこの方を模範にして生きていこう。神性を否定して主イエスを人間の道徳の模範にするだけの考え方は、日本の教会も含めて今日に至るまで、沢山あります。     また他方、神の御子キリストの歴史性をどこまで本気で受けとめているか、福音書が神話のままであったり、信仰が哲学理念で終わったりしていないか。もし、病気になって身体的痛みや人生の終わりを思うときも、キリストが共に痛みを負いたもうことを信じられるから耐えて生きられるのではないか。また、もし私たちの国が戦争に巻き込まれてしまったら、その歴史の苦難と不条理の中でどこまで神を信じられるか、信仰なんか捨ててしまうことにならないか。そうならないようにしていくとしたら、キリストも歴史の人物となられてこの世の社会的出来事や人間関係の苦しみを、今のこの私と共に、私以上に味わい抜かれたことを信じられるからではないか。また私の罪も人間の罪が作り出すこの世の現実をも、十字架で贖い取って下さったことを信じられるからではないか。

 

この世の歴史のただ中で、神はおられるとどうして信じ抜くことが出来るのか。それは主イエスの問いかけに応え続けることでもあります。「それではあなた方は私を何者だと言うのか」。

ヨハネ福音書は応えました。「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐に居る独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ一・一四、一八)。だから私たちは福音書の記述を通して、歴史の中に見える仕方で現れた実在の主イエスを凝視し、主イエス・キリストを前にして「あなたはマコトの神、マコトの人、私の救い主です」と真剣に応えます。

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