エレミヤ二九・四~七
ヨハネ 一〇・一六
教会は執り成しの共同体です。先週は相互牧会としての教会における執り成し、今日は地域教会としての執り成しを巡り語ります。執り成しを語りますのは、礼拝順序の献金をささげる祈りの所に、(執り成し)とあるけれども「この献金を感謝と献身のしるしとしてささげます」に加えて何故、執り成しを祈るのか、との問いかけを戴きましたので、今日は献金感謝での執り成しの問いを念頭にして語りたいと思います。
先週はある書籍をご紹介しました。『慰めのコイノーニア』(一七二頁。加藤常昭、二〇一二年、教団出版局)、コイノーニアとは交わりと訳されることが多い言葉です。この題そのものが教会を慰めの交わり、共同体と言っているような本の題名ですが、この本から引用した文面をもう一度、心に留めたいと思います。ナチスに抵抗し続けた牧師シュニーヴィントのことを紹介しています。文中途中からの引用です。
彼は遂に疲れ果てて床に就いた。痛みのひどい病であった。あまりの痛みに祈ることも出来なくなった。傍らでハラハラして看取る人々に言った。
「私はもう祈ることも出来ない。しかし、私のために祈り続けていて下さるお方がおられるから、私はその方にしがみつく。しがみつきながら死なせていただく」。
傍らにおられるキリスト。キリストは、祈りを聴いて下さるだけではない。この私のために祈り続けていて下さる。しかも、主キリストは十字架で、私の体の痛みを知っており、そして死をもご存知です。ここが、医者や友人や家族が傍らに居るのとは訳が違う点です。更にキリストは、十字架で死なれて終わったのではない、甦られて、今も生きて祈って下さる、神の右に座っていて、私たちのために執り成していて下さる(ローマ八・三四)。そのお方にしがみつく。そして、しがみつきながら死ぬことが出来る。キリストが一緒に死んで下さっている。だから人は一人で死ぬのではない。
傍らで見守る人も、言葉にならない祈りをささげたに違いない。その人も主キリストにしがみついて良い。この傍らにいる人が、その次の礼拝の献金当番で祈るとしたら、この病の人のことを覚えて祈っても良いですよね。もちろん、礼拝のどの場面でも執り成しの祈りをしても良いのですが「執り成し」としての祈りの場が礼拝の中にあり、執り成しが礼拝順序のプログラムの中に明確に表されていることは大事です。何故なら、教会は執り成しの共同体だからです。
今日もまた『慰めのコイノーニア』の本から引用したい。長い引用になりますが是非お聞き下さい。著者がドイツの教会の礼拝に出席したときの話です。ヨーロッパの教会の礼拝では、執り成しの祈りがとても大切にされます。広く深いので、執り成しの祈りは長い祈りになります。一〇分くらい祈っていることがあります。昔ながらの磨き上げられた祈祷文が祈られることもあります。多くの場合、献金の祈りと結びついています。ある教会では、少年少女から始まり、高齢者に至る各世代の代表者が献金を集めます。その献金が聖餐卓に置かれるとき、全員が起立します。そして献金を献げた人が、若い世代から始まり、全員が予め用意した祈りの文章を読んで祈ります。献金をささげる祈りに続いて、ひたすら執り成しの祈りをします。当時激しかったヴェトナム戦争のために、アフリカの混乱、飢餓のために、広く祈りが世界に広がります。そうかと思うと、今刑務所に居る受刑者のために祈ります。こういう祈りを聴いていると私たちの関心がどこまで届いているか問われます。礼拝の中で執り成しの祈りが最も長い祈りなのです。またドイツの教会では、執り成しの礼拝、一種の祈祷会をします。ドイツの教会の伝統に触れて、私たちがまだ学んでいない教会の宝があると思いました。教会は、執り成しの存在、執り成しのために生きる共同体です。私たちも献金の折、執り成しに覚えて祈っていい。
今日は旧約聖書エレミヤ書から読みました。戦争に敗れて捕囚となって連れて行かれたイスラエルの人たちに主なる神が語られます。私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから(エレミヤ二九・七)。町の平安を求めて祈る。これも執り成しの祈りですね。しかも、個人としてのみならず、民の共同の祈りとします。
今日はもう一冊紹介します。三重県伊勢市にある山田教会の井ノ川勝牧師が著した書物です(『教会』一一八頁。二〇一二年、教団出版局)。前任の牧師の言葉を引用しています。「伊勢神宮そのものと戦うためには、この町の中に、何年かかっても、教会に連なる本物のクリスチャンを作る以外にない」。教会に連なる本物のクリスチャンが何をするのかというと、井ノ川牧師が続けます。礼拝に出席するのは、町の人々のほんの一握りの者達です。しかし、町の人々を代表し、町の人々に代わって、町の人々のために、礼拝をささげ、執り成しの祈りをささげています。教会は町の人々の救いのために、執り成してとして町の真ん中に立ち続けるのです。
当教会は創立一二〇周年を迎えるにあたり気付いたことがあります。創立の最初から、地域の皆さんの応援があって、教会がこの地に立ち続けてきた。だから「地域の信頼に応えて」という自覚のもとに活動していくのだ、ということです。この見える諸活動は、見えない執り成しの祈りがあってこそ始まり展開して行きます。
これらの地域の町のための執り成しの祈りは、何よりも主イエスの祈りに支えられています。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った(ルカ二二・三二)。そして、祈って頂いてそこで終わるのではありません。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。力づけるのは、何より執り成しの祈りから始まります。
主イエスは、ご自分を良い羊飼い、私たちを羊に例えてお語りになりました。私には、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。(ヨハネ一〇・一六)。囲い、教会のことです。その囲いに入っていない他の羊、まだ教会に来たことのない、キリストを信じるに至っていない人々のことです。その人たちの事が主イエスの視野に入っている。執り成しに覚える人々にその人たちを加えている。
思えば、私たち自身が、以前は囲いの外にいた、それが導かれて教会の信仰を告白するに至りました。私たちのためにも主イエスは祈っておられた訳です。信仰を告白していない私たちを代表し、私たちに代わって、私たちのために。
それで私たちも、町の人たちを代表し、町の人たちに代わって、町の人たちのために執り成しの祈りをささげます。主イエスのお言葉に促されて大きな夢を語るなら、南河内地域全体が、その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになるということです。大胆すぎますか? 主イエスがそう約束しておられるのですから、勇気づけられて私たちは祈っていい。祈りから始まる。
教会の礼拝順序の中に「執り成しの祈り」がある。このことは「執り成しのコイノーニア、共同体」として相応しいことです。