列王記上八・三七~四〇
ヤコブ 五・一三~一六
教会は執り成しの共同体です。教会と何かについて、様々な言い方があります。教会は何よりも、主キリストの体です。恵みにより召された者の集いです。共同体という言い方では、例えば、礼拝共同体、信仰告白共同体、聖餐共同体等々あるのですが「執り成し共同体」の視点も忘れてはなりません。
今日は相互牧会として教会における執り成し、次回は地域教会としての執り成しを巡り語ります。執り成しを語りますのは、礼拝順序の献金をささげる祈りの所に、(執り成し)とあるけれども「この献金を感謝と献身のしるしとしてささげます」に加えて何故、執り成しを祈るのか、との問いかけを戴きましたので、二回に亘り執り成しを主題として語ることにしました
『慰めのコイノーニア』(一七二頁。加藤常昭、二〇一二年、教団出版局)という本があります。コイノーニアとは交わりと訳されることが多い言葉ですが、この題そのものが教会を慰めの交わり、共同体と言っているような本の題名です。その中で、著者が「執り成し」と訳しているドイツ語は、カトリックの用語では、代祷と訳します、と説明した後に、中渋谷教会の長老でありキリスト教思想家でもある森有正の言葉を引用していますので、少し長くなりますが紹介します。この文面では「祈りの共同体」と言っています。「祈りの共同体というのは教会そのものなのですから、祈りにおいて神の前に一つの体に属するということを自覚するということしかない。その祈りに支えられているために、私たちは罪を犯したり、誤ったりするのだけれども、また神の前に帰ってくる。私たちの知らない内に、どこかで誰かが祈っている訳ですからね。自分は独りで神の前に信じればいいんだということを言う権利はないと私は思います。私と同じように神様の救いに与った者が、兄弟姉妹のために祈って、この人たちが病気になったり、迷ったりしたときに、ある一つの共同体を作って、そこでその人のために祈っていく。それが、この世界の中に存在しているとき、一人ひとりの信者が帰ってくる所がある訳です。天国に行く前に」。 私たち信仰者と雖も、罪を犯したり間違ったりすることがあるけれども、この自分のために誰かが祈ってくれている。またその人が病気の時や迷い出た時に祈る。こういう祈りの教会、信者には帰っていく場所がある。このように私たちはその人のことを覚えて祈る執り成し共同体なのですね。
旧約聖書から、神殿を建てたときのソロモン王による神殿奉献の祈りの言葉の一部を読みました(列王記上八・三七~)。
またこの地に飢饉が広がったり、疫病がはやったり、黒穂病、赤さび病、いなご、バッタが発生したり、敵がこの地で城門を封鎖したり、その他どんな災い、どんな難病が生じた時にも、あなたの民イスラエルが、誰でも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたは、お住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、応えて下さい。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできた全ての道に従って報いて下さい。まことにあなただけが全ての人の心をご存じです。こうして彼らは、あなたが私たちの先祖にお与えになった地で生を営む間、絶えずあなたを畏れ敬うでしょう。
神殿をそのまま教会と言い換えて心に留めたい聖句です。教会は、誰でも、心に痛みを覚え、キリストに向かって手を伸ばして祈る、執り成しの共同体です。教会堂とそこでささげられる礼拝は、祈りの場でもある訳です。自分のために祈っても良い、またある人のことを覚えて、執り成しの祈りをささげても良い。私たちがいつでもここに来て祈る場所だし、また祈られていつでも帰って来られる場所でもあります。
新約聖書からヤコブ書を読みました。祈りの共同体の姿を記しています(ヤコブ五・一三~)。あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。祈りなさいと促しています。命令形です。でも病いの人がただ独りで祈るのではない。長老を招きなさい。これも命令形。そして遠慮なく招いて祈ってもらう。祈ってもらうは、長老たちへの命令形です。だから教会は祈っても祈らなくてもいいというのではなく、祈りの共同体です。オリーブ油、今の言葉で言えば、薬であり治療です。主の名によってオリーブ油を塗り祈ってもらいなさい。医療は祈りと共になされるものなのですね。
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦して下さいます。だから、主に癒して戴くために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。祈りに効果がある、病人を救うと言っても、祈りが聞かれて必ず痛みがなくなるとか病が治るとかいう訳ではない。でも、主がその人を起き上がらせて下さいます。起き上がる。復活するという言葉です。主がその人を起き上がらせて下さるのは、主キリストご自身が復活の主だからです。
旧約の神殿にせよ、私たちの教会にせよ、祈りの共同体、執り成しの共同体であり得るのは、先ほどの神殿奉献の祈りの言葉で言えば、どの祈り、どの願いにも、神様が、お住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、応えて下さるという信頼があるからです。それは、人間の願望通りにして下さるという以上に、主が御心に適って耳を傾け、罪を赦して下さる、起き上がらせて下さる。そのように聴いて下さる主なる神、主なるキリストへの信頼です。
先ほどの書物からもう一つ引用します。ナチスに抵抗し続けた牧師シュニーヴィントのことを紹介しています。文中途中からの引用です。彼は遂に疲れ果てて床に就いた。痛みのひどい病で
あった。あまりの痛みに祈ることも出来なくなった。傍らでハラハラして看取る人々に言った。
「私はもう祈ることも出来ない。しかし、私のために祈り続けていて下さるお方がおられるから、私はその方にしがみつく。しがみつきながら死なせていただく」。そして著者は言葉を添えます。使徒ペトロのために祈られた主イエスの祈りを自分のためのものとして、いつも聴いていたのであろう。「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ二二・三二)。
その方にしがみつく。始めて読んだとき以来私の心に残る言葉です。祈りを聴いて下さるだけではない。主キリストが私のために祈り続けていて下さる。しかも主キリストは十字架で、私の体の痛みを知っており、そして死をもご存知です。更にそのお方は、十字架で死なれて終わったのではない。甦られて、今も生きて祈って下さる。パウロも告げます。神の右に座っていて、私たちのために執り成していて下さる(ローマ八・三四)。その主キリストが傍らにおられる。そのお方にしがみつく。そして、しがみつきながら死ぬことが出来る。通常、人は皆独りで死んでいく。家族友人にどれほど囲まれる中で最期を迎えても、そこで死ぬのは独りです。でもキリストは死を知っておられる。しかも死人の内より復活されて、その人の傍らにおられる。だから、人は一人で死ぬのではない。
傍らで見守る人も、言葉にならない祈りをささげたに違いない。一緒に主キリストにしがみついて良い。長老を招いて祈ってもらいなさい、長老たちよ祈れ、とありましたが、どう祈っていいのか分からない。大きな力や効果のある祈りなど祈れないと思う。でもキリストが傍らにおられて、長老たちもキリストにしがみついて執り成しを祈って良い。
教会は礼拝共同体で礼拝をささげる。その礼拝で、信仰告白共同体の教会は信仰を告白する。聖餐共同体の教会は聖餐に与る。祈りの共同体の教会は祈りをささげる。そして執り成しの共同体の教会は執り成しの祈りをささげます。私たちも主にイエスに執り成して戴いた。立ち直ったら兄弟たちを力づけやりなさい。キリストの執り成しにしがみついてでよいから、私たちも執り成しの祈りをささげます。