日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年4月14日 説教:森田恭一郎牧師

「朝に備えて、光の武具を」

ヨブ記36章15~21節
ペトロの手紙一5章8~14節
今日は主の祈りの最後の願い「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」の後半の祈りに思いを向けます。この祈りを一気に祈ってしまうのではなく、後半を敢えて第七の祈願としてこの祈りを心に留める。今日の結論は、悪を見据えつつ神に向かって真剣に祈ろう。関連の書物を読みますと、この祈りは叫びだと言います。叫んでいい。

前回、試みに遭わせずと祈りながらも、現実には試みに遭う中で、試練と共に逃れの道が備えられていることを確認しました。そこでは試練は、私たちが神の子として鍛錬されて、いよいよ神に結びつく契機であると考えました。
今日のヨブ記、この個所は、ヨブ記の著者が、時には不条理としか言いようのない試練に遭う中で、人間の側から精一杯、試練について考えた結論を記している箇所です。この三六章一五節は試練を貧苦と言い換えていますが、神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いて下さる。貧苦を通さないままで救って欲しいものですが、人間、それでは救い求めないし神をも求めないでしょうね。そこで神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与えて下さるという訳です。そして二一節では警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ。試めされる中で、悪ではなく神に顔を向けるようにと勧めています。試練を神に顔を向ける鍛錬として考察し、また経験上も、試練の中でこそ前半の祈りが、悪に引きずり込まれないように、真剣なかつ支えの祈りになります。その時、聖霊の導きの中にあります。

それにしても七番目の願いは、悪よりです。私たちがすぐ思い起こすのは創世記三章の堕罪物語の蛇です。蛇の誘惑の殺し文句は二つ、あの木の実を食べても「決して死ぬことはない」という身の安全の保障、それから「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という神願望です。本来は神は神、人は人という秩序があるのに、それをひっくり返して自分が神になり神を利用してしまう誘惑。この秩序を逆転させることを聖書は「罪」と言います。何か悪いことをすることが罪ではなく、たとえ善い事をしても鼻高々になり、自分が神みたいになって救いを必要としなくなり神を求めなくなれば、罪です。
堕罪物語では、人は神から離れ隠れる者へとなっていきます。誘惑に負ける時、同じ試練が蛇に象徴される悪霊の誘いの中にある誘惑となります。神から離れるようにと外から呼びかけて、内にも同じ思いを抱かせるようにしてやって来ますから、人格的存在としての悪魔と考えることも出来ます。自分の力では抗えない働きかけをして来る生きた力として考える。日本語でも魔が差すという表現がありますが、経験的に分かることです。
また悪を、悪魔の働きの結果としての悪の状態として考えることも出来ます。時代状況、生活苦、病やケガ、状況は様々に現れてきます。悪は、人格的な悪魔なのか、状況としての悪なのか、両方の考え方は甲乙つけ難く、どちらか一方にだけ軍配を挙げることは出来ません。
ただ、少なくともこれを、神と対立する人格存在、神と並ぶ存在として考えると、神と悪魔の二元論に陥って、一神教ではなくなってしまうので注意が必要です。悪魔のような生きた存在や実体を考えるよりも、神さまから隠れて、神の光を遮ることによって出来る陰のようなものと考えてみましょう。陰には実体はない、しかし陰の部分は、暗く、決して暖かくはない。そこでは健全に心を開くことなく頑なになります。

今日のペトロ書は、悪魔的存在をイメージしています。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。当時の、キリスト教と信仰者を認めようとしない、ローマ帝国やその社会は、時に迫害を伴って悪魔的に表現せざるを得ない状況でした。その正体は結局人間であるのですが、人間が悪魔的存在になる。今日、当時のままの迫害は無くなったと言えたとしても、形を変えて、人間の頑なさは変わらない。
「悪より救い出し給え」と祈る以上、一方において、悪への洞察が求められている。人類は、良い社会に成るように歴史を形成し、弾圧や差別のない民主的な社会を求めてきました。大事なことです。でも、人間が良い社会を作れると、まるで悪を簡単に克服できるように考えて悪を軽視してはいけない。ヒューマニズムや人間の理性で何とかなるという事ではない。この地上に於いて、この主の祈りが必要なくなると思ってはならない。あくまで「悪より救い出し給え」と祈らねばなりません。
このように悪のことを軽視してはなりませんが他方、悪の状況を、宿命として諦めたりすることを勧めているのではありません。宿命論・運命論には抗わないといけない。時代に流されずに歴史を形成し生活を作っていくことは必要です。でも人間の力だけで何とか出来るというのではなく、「救い出し給え」と祈りながら地上を生きる。それは戦いです。でもそこで「救い出し給え」と祈ることが出来る。その幸いに思いを向けてこそ、地上の生活を生き抜く力が与えられます。

ペトロ書は、身を慎んで目を覚ましていなさいと命令形で勧めます。一方では悪の存在に気付きつつも、むしろ他方では信仰にしっかり踏み留まってと強調します。そのようにして悪魔に抵抗しなさい。目を覚まし信仰に踏み留まっているから、悪より救い出し給え、と諦めないで望みを以て祈ります。悪魔に向かって、助けてーとお願いするのではありません。悪に対しては闘うしかありません。
でも自分一人で闘うのではありません。あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなた方を永遠の栄光へ招いて下さった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなた方を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます。主の力によって立ち続ける。不完全なのに完全な者とし、弱いのに強め、無力なのに力づけ、ふらふらと揺れ放しなのに揺らぐことがないようにして下さいます。幾重にも支えを語って、前からも後ろからも、上からも下からも、右からも左からも、救いの御手に囲まれている。それが私たちの姿です。

そしてもう一つ大事なことは、いくら信仰によって主の力によって立つと言っても、やはり弱い人間ですから、目に見える共に祈る信仰の友が必要です。ペトロ書の終わりの部分、通常は手紙の挨拶文として読めますが、悪魔との闘いに続けて記される文章として読み直すと、どうでしょうか。
私は、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなた方にこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神の真の恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏み留まりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、私の子マルコが、宜しくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなた方一同に、平和があるように。
神の真の恵みを証しし合う信仰の友、キリストに結ばれていることを確信し、そこに目を覚まし続ける信仰の友、恵みにしっかり踏みとどまる信仰の友の記述です。「我らを試みに遭わせず悪より救い出し給え」。救いは自分個人のものでなく、我々、更には人類全体のものです。そのためにも、闘いに先立って、闘いの中で、共に祈ることが出来る信仰の友がいる、共同体がある。主イエスでさえこう仰いました(ルカ二二・二八、三二)。私が種々の試練に遭った時、あなた方は絶えず私と一緒に踏み留まってくれた。私たちも、立ち直ったら一緒に踏みとどまる信仰の友としてお互いに兄弟たちを力づけるのではありませんか。

今日は説教題を「朝に備えて光の武具を」としました。たとえ、まだ暗闇であっても、その深淵にあっても、朝に備えてです。悪の暗闇が永遠に続くことはない。主の十字架の故に、復活の故に、これははっきりしている。
ローマ書一三章一一節以下の御言葉をお聞きください。あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなた方が眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入った頃よりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。光の武具です。エフェソ書の言葉では神の武具です。この世の闇に備えて闇の武具で闘うのではない。輝く朝に備えて光の武具で闘う。人間の武具ではない神の武具で、闇に合わせた闇の武具ではなく光の武具によってでしか守り支えられないことがあります。
不思議なことですが、教会は光の武具、神の武具です。教会の人間的な部分に目を向けると躓くこともあるかもしれません。でも、本質はキリストの体です。教会に繋がって支えられ守られます。そして教会で聖霊に囲まれて、私たちは「我らを悪より救い出し給え」と祈ることが出来ます。

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