日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年5月12日 説教:森田恭一郎牧師

「救いのしるし」

創世記 四・一三~一六
ガラテヤ 六・一七

パウロは自分のことをこう語ります。私は、イエスの焼き印を身に受けている(ガラテヤ六・一七)。信仰者として生きる故に受けた迫害やその傷を指して「イエスの焼き印」と言いました。パウロはキリストに仕える者の姿として自分の人生を振り返って語ります。「苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較出来ないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。…一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント一一・二三~、三三八頁~)。このパウロの姿は端から見れば、何とみすぼらしい弱々しい姿でしょうか。パウロにとってもそうです。このようにしてまで自分は伝道者として頑張っているんだぞ、と信仰者として生きるが故に被った出来事を、誇っているのではない。むしろ、誇る必要があるなら、私の弱さに関わることを誇りましょう(Ⅱコリント一一・三〇)、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません(Ⅱコリント一二・五)と、苦難に遭う数々の経験は弱さを思い知らされる以外のことではなかった。そして、こういう人生のことでしょうか、あるいは何か病でしょうか、自分にある「とげ」を語り、すると主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われた(Ⅱコリント一二・九)。それ故に、私は弱い時にこそ強い(Ⅱコリント一二・一〇)と語ります。

 

この時の神様の恵みとは何なのだろう。恐らく、その時、その時に負う様々な苦しみ、その痛さ苦しさ、危機的状況の只中で、この私の苦しみを十字架の主イエスが共に苦しんでいて下さる、と思うことが出来たインマヌエルの信仰の経験なのではないでしょうか。それで、神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神から戴くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます(Ⅱコリント一・四)と語る訳です。この私の苦しみを十字架の主イエスが共に苦しんでいて下さる、という慰め、これが弱さの中で発揮される主の恵みであり、その結果、慰めを以て苦難の中にある他者に寄り添うことも出来るようになる。

何の話だったかと言うと、イエスの焼き印です。苦難に遭ったという焼き印だけでなく、そこで主イエスが共に苦しんで下さるイエスの焼き印です。

 

それでパウロは記しました。この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです(ガラテヤ六・一四)。キリストの十字架によって自分が世に対してはりつけにされた、世に対して死んだ、というのも、様々な苦難に遭う度に、十字架のキリストが共にいたもう信仰の経験から言える言葉なのでしょう。

それでは、私たち。私たちは、この世に生きる以上、この世を歩みながら、特に辛いこと、苦しいことがあると、神様、どうしてですか、と問いかけたり、更には、神様なんか信じても意味がない、と信仰が揺らいだりすることがある。でも思えば、パウロだってそうだったのではないでしょうか。つくづく弱さを思い知らされているのですから。そのような時に、信仰を失っていくのではなくて、私たちも、私は、イエスの焼き印を身に受けている、と思うことが出来れば幸いです。

 

今日は旧約聖書から、弟を殺してしまったカインに神様がしるしを付けられた話の所を読みました(創世記四・一三~一六)。カインは主に言った。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、貴方が私を追放なさり、私が御前から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」。主はカインに言われた。「いや、それ故カインを殺す者は、誰であれ七倍の報酬を受けるであろう」。主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。彼はエデンからは追放されましたが、神様からは追放されていません。殺人の罪の故に殺されることがないように主は彼にしるしを付けて下さった。罪を赦したもうしるし。罪を赦したもう主が共にいて下さるしるしですね。カインは罪赦された者となりましたが、それでも殺人者としての事実は負いながら、その後、結婚して家庭も与えられますが、ノド(さすらい)の地に住むさすらいの人生を歩んだのかもしれません。

パウロもまた、信仰を与えられキリストを証しする、罪からの救いの焼き印を身に帯びる使徒ですが、苦難から解放された訳ではありません。

 

私たちにとってしるしはあるのでしょうか……。あります。十字架のキリストです。客観的なしるしです。私たちにも各々、ときに苦しみがあるでしょう。そして苦しみに遭う時、気持ちがさすらう時、弱さを思う時、十字架のキリストが共におられ、キリストが共に苦しんでいて下さる。

そして、その十字架のキリストに共にはりつけにされて、古い自分に死んで、世に対して死ぬ。もうお気付きだと思います。私たちにとって自覚的なしるしは洗礼です。信仰が揺らぐ時、誘惑を受ける時、「自分は御名による洗礼を受けた」とキリストに立ち帰る。

更に私たちにつけられたもう一つの自覚的なしるしは、自らの罪を覚え、あるいは苦しみを覚える度ごとに十字架のキリストが共にいましたもうことに向き合う聖餐です。「今日も聖餐に与っている」と慰めを戴く。聖餐の式文に主の体の枝である自覚がいよいよ深くなり、…その苦しみに与り…とある通り、主の苦しみに与ります。信仰者として生きる苦しみですが、主があらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さることを知ります。

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