日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年9月2日 説教:森田恭一郎牧師

「彼の受けた傷によって、我らは癒された」

エゼキエル書34章11~16節
ペテロの手紙一2章18~25節
前回の説教では「自由を生きる」と題して、神の僕、神の奴隷となって生きる自由について語りました。二章一三節以下では、それを皇帝に服従する、と表現しています。今日の聖書個所は、小見出しが「召し使いたちへの勧め」とありますように、召使が主人に対して服従することについて語ります。一八節、召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。
「主イエス」と告白する以上、自分が「主の僕・奴隷」であることは信仰の事柄として納得します。でも、召使や奴隷が主人に従うことを認めていいのかという議論は十分あり得る訳です。もちろん時代が二千年前、社会的に人権が認められる時代ではありません。また、奴隷と言っても今日私たちが思い浮かべる十九世紀アメリカ南北戦争の時代の黒人奴隷とは異なりますので、奴隷などの用語の印象から聖書を批判するのは単純すぎます。

ペトロ書が言いたいのは、奴隷制度を認めるかどうかという話ではなく、むしろ①召使の人たちが教会員として位置を持っていたことを大事に受け止めているが故の言葉であることに、社会の中での教会ならではの姿を映し出していることです。
ただ、主人が善良で寛大な主人ならまだしも、無慈悲な主人であった場合でも、心からおそれ敬う。それは難しいよと思う所です。註解書や説教集の中には、おそれというのを主人よりも神を畏れることだと理解する説明もあります。一見、無慈悲な主人に従っているようだけれども、根っこは神様に従っている。②神を畏れることが召使としての日常生活の中に具体的に起こっている訳です。自分がキリストを畏れるキリスト教徒であるということが日常生活の中にどう現れているのか、を問うているとも言えます。
また、そもそも、当時の教会には奴隷制を社会に対して批判するだけの力はありませんから③現実として召使として歩むしかない人たちを、牧会的に支え、勇気づけていくことに関心があったとも言えます。主人に従うあなたの人生が、実は神様を畏れる人生なのだと勇気づけている訳です。

それを更にこう表現する訳です。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。不当な苦しみを受け辛い思いをしなければならない。それを神様がお望みだと弁えるべきなのか。それは神様の御心には沿っていないと考えて、こういう社会的現実を無くなるようにしていくのが教会の務めではないかと、現代の私たちは思う訳です。
しかしペトロ書はそうは言わない。現代の私たちがこの聖書の言葉をどう受け取ったらいいのか。召使が主人に従うことが何故、自由を生きることであり、無慈悲な主人に従うことが何故、御心に叶うのか。それは、そのことによって御心に思いを向けることになるからだと言っているようです。
ペトロ書はキリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからですと言います。私たちのために苦しみを受けられた、④その御心を思い起こす。キリストの足跡を思い起こす。キリストの残して下さった模範を思い起こす。
罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなた方が召されたのはこのためです。不条理を耐え忍ぶのが神の御心であり、そのように私たちは召された…。このようなことを求道者会のいちばん最初に聞いたら、キリスト教徒になるのはまっぴら御免だということになりかねません。でも、否応なしに巻き込まれてしまうからこそ不条理です。
主人と奴隷でなくても、例えば、会社の上司と部下でも置き換えて応用することは出来る訳で、不条理と思えることはどの時代、どの日常の中にも起こり得ることです。その所で、キリストの苦しみを思い起こす場として、上司と自分との関係、間柄を受け取っていく。上司に従うなんて嫌だと言った所で解決にはなりません。その現実の中で、⑤自分が健やかに生きていけるためにどうしたらいいか、そのことに思いを向けている訳です。

二二節にかっこがあって「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とありますが、これはイザヤ書五三章苦難の僕の詩からの引用句です。この後も二五節前半まで、苦難の僕の詩からの引用がちりばめられています。新共同訳聖書が何故二二節だけをかっこに入れているのかよく分かりません。二一節から二五節まで少し段を下げて記している聖書もあります。明らかに引用だと解るようになっている。
二一―二五節はキリストのお姿を、苦難の僕の詩から思い起こします。あの十字架の出来事を意味づける詩として、キリスト教会が味わったのがこの苦難の僕の詩です。二三節、苦しめられても人を脅さず(イザヤ書では口を開かなかった)、二四節、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。彼の受苦は彼が悪いことをしたからではなく、私たちの罪を代わりに負ったからです。それは更に私たちが、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました。そのあなた方と言えば、二五節、あなた方は羊のようにさ迷っていました。

さ迷っていた羊を尋ね求め連れ戻す羊飼いとしての牧者を語るエゼキエル書三四章、その一六節に傷ついた者を包むとあります。牧者は、傷を治すのではなく、包む。外科的傷なら治すことも出来ます。内科の傷も治せるかもしれません。でも慢性病となるとなかなか治せない。まして心の傷はそう簡単に治せるものではありません。そのような時どうするのか。聖書は、傷を包むと表現します。そして物を包むのではない。傷を包むのであり、傷ついた人を包みます。味わい深い言葉です。自分は悪いことはしていない、相手が悪いと思える時に、相手を包めるようになったら、なかなかのものですが、なかなか出来ないことです。

イザヤ書の言葉はさらに彼の受けた傷によって、私たちは癒された(五三章六節)。包まれ、そして癒される所まで至る。言葉の説明としては、私たちの罪を代わりに負って私たちは裁きを負わなくてもよくなり、私たちの罪の裁きの故に彼が傷つく訳ですから、彼の傷によって私たちが癒された、と説明は出来ます。が…、何か言葉では説明しきれない…。読めば読むほど、不思議な言葉です。それだけに苦難の僕の詩の御言葉を、じっくり味わいたいものだと常々思います。
改めてもう一度、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。彼がそこで受ける傷そのものは、私たちは負っていない。でも私たちが癒される。今日の私たちには、十字架も復活も、遠く離れたエルサレム、それも二千年前の出来事。それが今ここにいる私たちに繋がって来て、自分の救いになる。これも不思議です。キリスト教信仰は時空を超えたこの出来事を、自分の救いの出来事として受け止める所に成り立つ信仰です。それが今のここにいる自分に繋がるのは、聖霊の導きであり、それを受けとめる信仰です。それを今日の聖句は、キリストのその足跡に続くようにと、模範を残されたと表現するのですね。足跡に続くように見つめながら模範のキリストに従い行きます。

模範というのは、行為の真似をすることだと思いがちですが、そもそも十字架にかかって罪を贖うキリストの真似など出来るはずがありません。こんなに良い事をしていますよ、と行為を示すためのものでもありません。模範を示されることによって、キリストの救いの御業がまず自分に伝わってくること、そして更に自分が愛の業の模範に生きることによって、キリストの救いの御業があなたのためだったのですよ、と相手にも伝わっていくことです。これが、私たちキリスト教徒が善行や隣人愛に生きる目的です。私たちが立派になるためではない。救いが伝わるためです。
だから二五節の終わりに、救いが伝わった光景を描いている。自分も相手も「今は、魂の牧者であり、監督者である方の所へ戻って来たのです」。こういう言い方が出来るし、こういう出来事が起こる。そうやって救い主と自分とが繋がる。キリストの救いの御業が相手にも繋がって来る。それを自覚するに至る。それが模範を生きることです。私たちの善行・隣人愛はキリストの御業が伝わり、自分も相手も救いの御業に繋がるためです。それで、彼の受けた傷によって私たちは癒された。

これから聖餐式。なぜキリストは聖餐を制定されたのだろう。言葉では説明し切れない救いの御業とそこに込められた愛とを味わい知るためではないでしょうか。聖餐に与り、キリストの受けた傷によって私は癒された…、あなたも私も…。このことを、理屈でなく、本当にそうなのだと、聖餐において味わい知るのです。

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