日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年8月16日 説教:森田恭一郎牧師

「光の中を歩もう」

イザヤ  六〇・一~五
使徒言行録二六・一九~二三

「光の中を歩もう」、今日の説教題と致しましたが、この題や夏の日差しとは反対に、私たちはまだ感染症の暗闇の中にあります。先週の長老会にて、唐突でしたが、今日からまた、しばらくご家庭で主日礼拝をおささげ戴くことに致しました。この大阪、河南地域の感染が広がっており礼拝での感染症拡大を防ぐためです。主日礼拝での恵みを戴いてギリギリの所で支えられている皆様方には、大変申し訳ないことです。九月末よりも少しでも早く再開となりますように、またこの間の牧会について少しでも手を尽くしたいと思います。皆様同士の執り成しをもお願い申し上げます。

 

さて、皆さんが「自分の抱いている希望について」問われたらどうお答えになりますか? 今のご時世なら、感染症が収束することです、と答えるでしょうか。もちろん早くそうなって欲しいと誰もが思うに違いありません。

今日の使徒言行録の箇所でパウロが語った希望の内容は、メシアは光を語り告げることになる

(二六・二三)ということです。パウロがアグリッパ王に語り始めたのは、「王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです」(二六・七)というのがきっかけです。自分は訴えられているが、ローマ法に抵触するような悪いことは何もしていない。私がしたのは、ただ自分の希望を証ししてきただけだという訳です。

パウロが語る希望の内容を改めて申しますと、つまり私は、メシアが。メシア、救い主のことです。アグリッパ王は主イエスの事を直接には知りませんから「主イエスは」ではなく「救い主というものは」と少し一般化して語ります。そして、苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して。ここでパウロは主イエスの十字架のことや贖いや罪の赦しについては詳しく語りません。それはアグリッパ王を初めとする異邦人が、主イエスの十字架を良く知らないということもありますが、贖罪は既に私たちに与えられていることだからです。ここでは重点を希望に置いて語ります。最初のメシアに続いて私たちもいずれ死者の中から復活させてもらえるという希望です。これは真剣に素直に受け止めるなら、異邦人のアグリッパ王にも誰にとっても、考えるに値する希望の事柄です。それで民にも異邦人にも語ります。また希望の事柄をこう表現しました。メシアは光を語り告げることになる。パウロは光の出来事を述べたのです。

 

使徒言行録は、主イエス・キリストを直接知らない日本の人たちに向かって、自分の抱いている希望について、復活されたメシア=救い主を、光として語れるようにと、私たちを招いています。

 

私たち人間は死んだらどうなるのでしょう。臨死体験した人の話を聞くことがあります。また体験者の話を映像化した映画を観たりもします。基本的に共通しているのが、天に召されて目にする世界はまばゆい程の光の世界だということです。出来る事ならそこに留まっていたかったのに、急に体が重たくなって現実に戻っていた、とか……。

これを聞いて人は、本当に実在することではなく脳細胞の何かの異変でこう感じるのではないかと考えたりもしますが、色々詮索したり疑ったりするよりも信じたらいいと思います。

イザヤ(六〇・一~)が語りますメシアによって救いが到来した時の様子。この聖句が語る光景を思い描くだけで、心晴れやかな思いになります。

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。

私たちがこの世で経験する地上を覆う闇、世界の歴史の現実としての国々を包み込む暗黒、これらのものを一切無力にしてしまう主の栄光の輝きを描いています。そこにいる人々の姿を続けて、国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。実に素晴らしい風景、いや素晴らしい光景です。忘れずに心の内に描いていたいと思います。イメージとして信じていい。

 

今日考えてみたいことは、こういう主の栄光の輝きのイメージを、死後の世界として描くだけでなく、現実の生活の中で抱いて歩むことです。主イエスは高らかにこうお語りになりました。

イエスは言われた。「光は、今しばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のある内に歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のある内に、光を信じなさい」(ヨハネ一二・三五~三六)。光の内に歩む。主イエスはこれを死後のこととしてのみ語ってはおられないでしょう。現実に有るか無いかの議論ではなく、光のある内に光を信じることです。主イエスは光として世に来られました(ヨハネ一二・四六)。主イエスをどういうお方として信じるか、信仰の事柄です。

光のある内にというのは、主イエスがこの世にお出でになり、ご自身を人々に顕わされた内に、つまりクリスマスから昇天に至る間にということです。今の私たちにとっては、福音書を初めとする聖書に記された主イエスのお姿、教会の礼拝でそのお姿に触れることによってということです。

 

地上の営みには、個人の営みから国際政治に至るまで、人間の弱さ、罪深さがもたらす様々なもめごとや困難があります。また事故に遭ったり感染症に罹り重篤になったりすれば、死の陰の谷を歩むような思いになることもあるでしょう。人はそのような時、暗闇にこだわってしまいます。怒りが募り、不安に怯え、人間の弱さ、罪深さだけが目に留まるようになります。例えば自粛警察や感染者家族への排除の感覚は、暗闇の陰の一端ではないでしょうか。暗闇に追いつかれてしまっています。

でもその暗闇に追いつかれないように光にこだわり、体ごとそちらに思いを向け光の中を歩みたいです。社会の中で、医療者への感謝や、様々なお互いを応援し支援し合うために知恵を出し合い具体化していく営みは光の中を歩む姿だと言えるでしょう。日頃の生活の中で、応援し合う小さな優しさにも気付く私たちでありたいです。

先日発行の「教会だより」に、中世ヨーロッパでペストが流行った時のある修道院に掲げられた十字架のキリスト像のことを記しました。まるでペストに罹ったようなキリスト像。暗い夜のような暗闇を背に光に映し出されているそのお姿が印象的です。その修道院の病院に入院した患者たち、最期まで看病し続けた奉仕する人たち、差し込んでくる復活の光を仰ぎながら、人生を生き抜き、締めくくっていきました。

パウロがアグリッパ王に、メシアは死者の中から最初に復活して、光を語り告げることになっていると、敢えて選んで「光」にこだわって述べたのは、この世に暗闇があっても、メシア=キリストがもたらした光の希望のお蔭で、パウロ自身が最期まで生き抜くことが出来たからです。

 

祈り。主よ。あなたは光としてこの世においでになられました。暗闇に目が行く私たちを憐れんで下さい。心ならずもご家庭での主日礼拝をお願いすることになってしまいました。この間、信仰を保って下さい。あなたが既に私たちを包み、あなたが私たちを支えておられる光に気付くことが出来ますように。そして日常の社会生活においても、主の光の中で、お互い同士を受けとめ、共に歩んでいくことが出来ますようにお導き下さい。

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