日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年1月7日 説教:森田恭一郎牧師

「体の弱さを抱えるときに」

イザヤ五三・四~五
ガラテヤ四・一二~一九

震災で生活が破壊された困難の中にあり、また親しい者を失って悲しみの中にある人たちに主のお支えを祈ります。信仰者の方たちも、それでもキリストの神の恵みを見出していけますように。

 

パウロはガラテヤ教会に福音を宣べ伝えた時の経緯をこう語ります。知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなた方に福音を告げ知らせました(ガラテヤ四・一三)。 詳しい事情は分かりません。恐らく、先を急いでガラテヤ地方は通り過ぎていくつもりだったのに、病気になり、しばらくガラテヤに留まることになった。それがきっかけで、福音を告げ知らせた。人々にとって、病気になった旅人を受け入れ、介抱する。余計な仕事が増えたようなものです。私の身には、あなた方にとって試練ともなるようなことがあったのに(ガラテヤ四・一四)とある通りです。その関わりの中でパウロは自らの弱さをさらけ出しながら福音を語り、人々は初めて聞くキリストの福音を聞き、信じた…。

 

体が弱くなっても、その中で福音を宣べ伝える。何故、そんな気力が続くのだろう。パウロなら当たり前、なのだろうか。パウロはある箇所で、刺(とげ)に言及しています。何かの病のようです。この刺を取り除いて欲しいと三度祈った (Ⅱコリント一二・八参照)。これはもっと後になってからの文章でガラテヤでのことではありませんが、体の弱さ、パウロだって辛い。そしてこの身体的辛さもありますが、神様どうして? 元気な方が伝道にも力が入るのに…。その問はあったはずです。

 

そのようなパウロを支えてのは、ガラテヤの人たちでした。あなた方はパウロをさげすんだり、忌み嫌ったりせず、却って、私を神の使いであるかのように、受け入れてくれました。あなた方は自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです(ガラテヤ四・一四、一五)。自分が体の弱さの中にあるとき、このような周囲の人たちの善意や応援や協力は、何と心強く思えることでしょう。

けれども後になって、律法も大事だと主張する「あの者たち」(ガラテヤ四・一七)がガラテヤの人たちの中に入ってきて、パウロとその福音の真理から引き離さそうとする訳です。ガラテヤ教会の人たちとの友情もいとも簡単に壊れていく。

これもまたパウロにとって辛いはずです。せっっかく福音の真理を語り、ガラテヤの人たちも受け入れたのに、神様、どうしてですか? 真理を曲げる人が出てきて、ガラテヤ教会の人たちも翻弄されてしまう。教会が崩れていく。神様、私のことも教会のこともお見捨てになるのですか。

 

そこで尚、使徒、伝道者として立ち続けていく。パウロだから簡単に乗り越えました、という話ではなかったはずです。そこで、思い起こしたいのは、先ほどの刺を取りのけてもらうように三度祈った話です。祈った後の答えはこういうものでした。「私の恵みはあなたに十分である、(神様の恵みの)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」 (Ⅱコリント一二・九)。この声が、どう聞こえてきたのか。きっとパウロの気付きですよね。諦めと紙一重の恵みのみ言葉です。そこでパウロは、かろうじて信仰に留まった。

この気付きは、更に考えると、この自分自身の弱さを、キリストが共有して下さっているという気付きです。

いや、もう一歩、あの十字架において、キリストはご自身の弱さを身体的にも信仰的にも既に味わい尽くしておられる。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)。十字架の身体的激痛もさることながら、神に見捨てられる信仰的絶望を、キリストは深く心身共に担われた。

パウロはイザヤ書のみ言葉もよく知っていたはずです。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。これは、パウロが人々から受けた悲しくも辛い経験です。イザヤ書は更に続けます。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた苦しみによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された(イザヤ五三・三~五)。

パウロは自分が受けた身体的弱さも、色々な迫害や出来事による辛さ、困窮、時には信仰的ぐらつきさえも、遠くから共有しておられるというだけでなく、既に、キリストが全てご自分の事として担われた。だから、今、パウロの辛い人生経験はキリストの経験の一部である。そして今、キリストがここにも生きて働いておられる、これを今、ここで経験しているのだ。 自分を包む神の御業に気付いた時、その度ごとにパウロは、それでも信仰者として歩み続けるように支えられたに違いありません。

 

自分の困難な中にあるときに自分の今の困難がキリストの経験の一部になっていると気付くために大切なことは、キリストのお姿を思い起こすことです。そのお姿の中に自分を見出していくことです。その時、キリストが今、ここにおられると支えられるのです。

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