日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年7月18日 説教:森田恭一郎牧師

「主イエスこそ、執成し手。永遠に」

詩編一〇七 ・一、四三
ヘブライ七・二〇~二八

本日は、教会創立一一六周年を記念して礼拝をささげます。一一六年前の丁度今日、A・D・ヘール宣教師が「長野講義所設立申請書」を大阪府知事に提出したのを、創立記念日としております。  この礼拝で記念する意義は、これまで河内長野教会が目指して積み重ねて来たことを、今の私たちが確認し、これを教会が将来に向けて目指し積み重ねて行く、これを決意することです。河内長野教会はこれを何と言い表しているのか……。創立百周年記念誌の題は「栄光神に在れ」です。百周年の時に、このように確認し、第二世紀を迎えるに当たり、これからも「栄光神に在れ」と決意したのでした。それから一六年、今日、これを変える必要はありません。これからも「栄光神に在れ」と決意して行こうではありませんか。河内長野教会の存在と営みが「栄光神に在れ」を現していくものとなる。皆さんお一人おひとりの存在と営みが「栄光神に在れ」を現していくものとなる。これを目指していきます。教会と私たちの前向きな決意、信仰の思いを新たにしていきましょう。

 

教会が目指し積み重ねていくこと、それをヘブライ書はこう語っています。「希望によって神に近づく」(ヘブライ七・一九)、そして「ご自分を通して神に近づく」(ヘブライ七・二五)。

私たちが神に近づく。それは、希望によってです。そして、ご自分を通してというのは、主イエスを通してということです。それは、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので(ヘブライ七・二四~二五)と理由を記しています。

主イエスは大祭司である(ヘブライ二・一七他)と繰り返しヘブライ書は述べています。レビ系統ではなく、メルキゼデクと同じような祭司。変更されない神様の誓いによって立てられた祭司。それで契約の保証となって下さった祭司、永遠に生きているのでいつまでも変わることのない祭司。常に生きていて人々のために執り成しておられる祭司、ただ一度ご自身をささげられた完全な祭司。この七章に記される一つ一つの説明を省きますが、この特別な大祭司のお蔭で、私たちは神に近づくことが出来、このお方は私たちを完全に救うことがお出来になる。パウロもまた、主イエスの大祭司としての働きを印象深く書き残しています。「誰が私たちを罪に定めることが出来ましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう」(ローマ八・三四~)。大祭司の働きですね。

 

それで、この大祭司のお蔭で私たちは神に近づくことが許されている。つまり「希望によって、主イエスを通して、神に近づく」。それは反対側から言いますと「現実の成果によって、自分を通して」ではない、ということです。それが福音の本質である訳ですが、これが意外と難しい。自分はこれだけのことをやってきた、成果を上げてきた、立派な自分である。それで、神様に近づくことが出来る、と思いたい所があります。いや、そんな傲慢ではありませんと思うかもしれませんが、これも反対側から言いますとこういうことになります。今はもう駄目だ、教会で奉仕らしい奉仕も出来ていないし、礼拝も出席できないし、祈ることも忘れてしまう。こんな自分では、とてもではない、神様に近づくなんて出来るはずもない。弱音を吐いてしまう。そうやって、教会からも神様からも離れてしまうことになりかねない。

若いときには信仰を以て元気に生きていたのに、老いるとこうなるのか。身体だけではない、信仰も弱っていく。老いるのは怖い、辛い。そんな風に老いの厳しさを思う。あるいはこれが人生なのだと受け止めればいいと悟ればいいのか?   若いときのように元気でちょっと強がってみせるのも、老いて折れてしまうのも、自分に根拠を置いている点では根っこは同じです。だからこそ、自分を通してではなく主イエスを通して、今に至る自分の成果ではなく将来の希望によって、それで神様に近づくことが許されている。

 

聖書は知っています。私たちの姿を。二六節の言葉を用いるなら、私たち自身はと言えば、聖ではない、罪ばかりで、汚れており、罪人の頭であり、何も誇れない低い存在でしかないということを。ですから、そんな自分に目を向けていては、神に近づくなんて出来るはずがない。

そうではなくて、今日の詩編の言葉を味わいたい。知恵ある人は皆、これらのことを心に納め、主の慈しみに目を注ぐがよい(詩編一〇七・四三)。そうであればこそ、魂が渇き衰えて弱音を吐きながらも、神様に近づくことが出来る。

ヘブライ書の七章後半部分を読みまして、目に留まった言葉がありました。「永遠に」、とこしえにという言葉です(ヘブライ七・一七、二一、二四、二八)。内容として同じなのは「常に生きていて」(ヘブライ七・二五)。パウロも「復活させられた方であるキリスト・イエスが」と同じことを語っています。これこそ、ただお一人、他でもない主イエスにしか担えない特別な大祭司であることを明らかにしています。キリストが常に生きていて、永遠に、とこしえに大祭司でいて下さるからこそ、私たちには神に近づく希望がある。

 

教会がこれまで、そして今も、それからこれからも、目指して積み重ねていくのは、主の慈しみに目を注いで、神に近づくことです。それが、「栄光神に在れ」。栄光自分に在れではありません。私たちは自分に栄光を帰して、信仰さえもその自信を保とうとしてしまいがちです。あくまで「栄光神に在れ」です。

でもだからと言って、この栄光は、自分から遙か遠く離れた所で自分と関係なく輝いているのかと言うと、実はそうではありません。

ある方が亡くなられるときのことを、娘さんがこう語って下さいました。父は最期の日、詩編を渡してくれるようにと言いました。父は開いて読もうとしましたが、ひどく弱っていたので支えることが出来ず、聖書は開いたままベッドに落ちました。それからしばらく、静かな部屋の中で、父は目を閉じていました。「美しい、美しい。主の栄光が私を取り巻いて輝いている。主の栄光が私たちの内に光っている」。そして小声で「主の栄光はご自分の内に輝く」と申しました。父は主と共に栄光に包まれました(=天に召された)。

そして最期に読もうとして開いていた詩編、それは「主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがない」(口語訳)。詩編一〇七編一節の聖句です。慈しみは永遠にということです。慈しみはとこしえに絶えることがない、この宣言の中で、慈しみに目を注ぎ、神に近づき、天に召されていかれた訳です。この娘さんの父親とは誰だか、皆さんご存知でいらっしゃると思います。A・D・へール宣教師、河内長野教会の創立者です。

河内長野教会の私たちは、希望によって主イエスを通して神に近づく、これを目指して積み重ねて行きます。主の慈しみに目を注ぎ「栄光神に在れ」と心に刻んで、本日の教会創立記念礼拝から、信仰の心を新たに戴いて歩み始めます。

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