日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年5月7日 説教:森田恭一郎牧師

「主の名によって立ち上がる」

エゼキエル三六・二五~二八
使徒言行録 三・一~一〇

本日の使徒信条の箇所は「我は聖霊を信ず」です。父なる神を信ず、御子イエス・キリストを信ず、そして聖霊を信ず。聖霊は単なる神の道具や働きの力のような「もの」ではなく、神御自身、「人格神」です。聖霊を神として信じる。使徒信条はこれを三位一体の神として告白しています。

ただ、私たちは正直に申しますと、聖霊は何か捉えどころが無くて分かりにくいという思いがあるのではないでしょうか。父なる神様のことはキリストが証している。未だかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである(ヨハネ一・一八) とある通りです。またキリストのことは聖霊が啓示してくれる。父のもとから来る真理の霊が来る時、その方が私について証をなさるはずである(ヨハネ一五・二六)。でも聖霊を明らかにするものは何もない。聖霊はご自身を隠しておられます。見えないから聖霊を信じなければならない。もちろん神として信じます。

そしてもう一つ、信じるようにと招かれていること、今日はこれを主題にしたいのですが、聖霊が、私たち自分自身に働いて、私たち自身の中に入ってきて下さるということです。聖霊を信じるということは、聖霊が働きかけ入ってきておられるし、入って来て下さる自分を信じるということです。私たちは、イエス・キリストを信じるキリスト教徒です。そのこと自体、聖霊のお蔭です。パウロが語っています。ここであなた方に言っておきたい。神の霊によって語る人は、誰も「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです(Ⅰコリント一二・三)。父なる神様を信じる、御子なるキリストを信じるのは、私が独力で信じたからではなく、聖霊の導きがあってこそです。私たちは自分で気付かなくても、もう既に聖霊がご自身は隠れたまま、私たち自分の中に入ってこられて導いて下さったからです。信仰告白だけではない。今日、私たちが礼拝に集っているのも、賛美を歌うのも、聖書の解き明かしを神の言葉として聴くのも、キリスト教徒として歩めるのも、自分の業のようでありながら全て聖霊の導きのお蔭です。そう信じます。

 

今日読みました使徒言行録三章の記事、聖霊降臨に続く使徒たちの働きを宣べた最初の箇所、生まれながら足の不自由な人の癒やしの出来事を記す箇所です。ペトロとヨハネが「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた(使徒言行録三・八)。ここに、直接には聖霊が働いたとは記されておりませんが「キリストの名によって」とあります。これは「聖霊によって」と言い換えても構いません。聖霊は父なる神様やキリストと無関係な霊ではなく、キリストの霊ですから、キリストの名によって、聖霊が御業をなさる訳です。

ペトロが彼の右の手を取りました。足の不自由な彼は、金銀はないと言われているのに、ここで「どうせ自分なんか」とひねくれないでよくも立ってみようと応じたものだと思います。応じるのも聖霊の導きです。そして聖霊がこの足の不自由な彼を立ち上がらせました。聖霊が彼の中に入って、彼は躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。

彼はそれまで、神殿入り口の所、神殿の外で、神を賛美することなく、ただ神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた人です。まるで物のように置いてもらっていただけの人です。生まれながらのという運命に神に見捨てられた神からの無限の距離を感じ、自分の人生に絶望するしかなかった……。その彼に、聖霊が入ってきて働きかけ、その結果、神を賛美する者、神殿の境内に招かれる者となりました。今日の旧約聖書の言い方で表現すると、私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。お前たちは私の民となり私はお前たちの神となる(エゼキエル三六・二六、二八)。キリストの神が生まれながらにして足の不自由であった彼の神となって下さり、彼は神の民の一員となった。それを知って賛美するように彼はなり、神殿に招かれた。それは、聖霊の導きです。

 

そして聖霊が働きかけたのは彼だけではありません。先ず誰よりも使徒たちです。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て「私たちを見なさい」と言ったとあります。ペトロの言った言葉に注目したい。「私たちを見なさい」……。皆さん、私たちはこう言えるでしょうか。私たちは「キリストを見なさい」とは言えるでしょう。それなら「私たちを見なさい」とも言いたい。こんな私なんか、と思うかも知れません。でも、私たちはどんな存在か。私たちは神に造られた者、キリストに拠って罪贖われた者、神に愛されている者、そして聖霊に導かれた者、そして教会に導かれた者。そういう私たちなのですから、この「私たちを見なさい」と言い得る者です。聖霊によって起こる私たちの変化はここにも現れている訳です。

 

その結果が足の不自由な人に及びます。彼が神を賛美し、神殿の境内に入ったことは先ほど申し上げました。それだけではありません。民衆は皆、彼が歩き回り神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。それから四章の記事になりますが、長老たちや律法学者たちがペトロやヨハネのしたことを快く思わなかった……。しかし、足を癒していた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった(使徒言行録四・一四)。足を癒やしてもらった彼は、殊更に「私を見て下さい」とは語ってはいないけれども、民衆に対しても、長老や律法学者たちに対しても、大胆に見てもらっています。聖霊が導いて変えられた自分を見てもらいながら、キリストを証しています。キリスト教徒として何か特別なことをするのではない。ただ導かれたままに生きる。それが証になるわけです。

私たちも、同じなのではないでしょうか。先日、臨床心理士の方と言葉を交わす機会がありました。病院で患者さんの話をじっくりと聴いて、患者さんが自らの思いを整理するのを手助けします。その訓練を受けている方たちです。その方が臨床宗教師・牧師の私に言われるのには、「天国の確かさを患者さんには言うことが出来ない」ということでした。その点、キリスト教徒の私たちは確信している。「我らの国籍は天に在り」と信じています。そのことを信じて、私たちが仮に患者の立場になっても、様々な困難の中にあっても、何か他の方々にはないものを戴いている。私たち自身はと言えば、こんな自分です。

パウロも言っています。土の器でしかないけれども、福音の宝をこの器に盛ることが許されている(Ⅱコリント四・七参照)。私たちは、死にかかっているようでこのように生きており、悲しんでいるようで常に喜び(Ⅱコリント六・九~参照)、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足している。何故なら、私は弱い時にこそ強いからです (Ⅱコリント一二・一〇参照)

ボロボロの土の器の中に、弱い自分の中に聖霊が生きて働いておられる故に、大胆に恵みを戴いている自分のあるがまま、そこを生き、そのような自分を見せて良い訳です。          聖霊は、この今ここで、この自分の中に生きて働いておられます。これに比べるとキリストの御業は二千年前に、エルサレムで十字架にかかって下さった。それは、私たちから見ると、今ではない過去であり、私たちの中ではない外における御業です。そこに信仰の空しさをふと思うことがあるかもしれない。でもそれが、御言葉と共に聖霊において、今ここに私たちの中に入ってくる。キリストと私を繋ぐために入ってきて働かれる。それが聖霊の御業であり、その結果が私たち自身と私たちの信仰生活だと言えます。このように導いて下さる聖霊を信じます。

今日は聖餐式です。キリストの贖いの御業を思い起こす想起の場でもあります。それはしかし、ただ過去を思い起こすことではありません。想起するのは、キリストの救いの御業が自分のためにあるのだと「今、ここ」の私のための出来事になるということです。

更にひと言加えますと、自分の中に働いて下さる聖霊を信じるならば、本人が気付かない内に他の人たちにも働いて下さると信じます。被災地の困難の中にある被災者の人たちにも、救援のために働かれる人たちのためにも、聖霊は支え導いて下さる、こう信じて祈るものです。

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