日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年11月15日 説教:森田恭一郎牧師

「『私は誰?』と主イエスの問い」

詩編 四三・五
マタイ一六・一三~二〇

今日の聖書個所、マタイ福音書一六章ではペトロが弟子たちを代表して信仰の告白をしました。「あなたはメシア(=救い主)、生ける神の子です」。

ペトロや弟子たちはどうして、どうやって「イエス様を救い主、神の御子」と告白できたのでしょう。私たちもペトロや弟子たちと同じように導かれて、信仰の告白をしたい、信仰の告白をし続けたいと思います。マタイ福音書を少し前の方から思い返してみましょう。

 

まず八章二三節~。弟子たちが主イエスに従って舟に乗って湖の沖合まで漕ぎ出した時のことです。風がビュウビュウと強くなってきて、湖は激しい嵐になってしまいました。波が舟の中までザブンザブンと入って来ました。怖かったでしょうね。船底板一枚の下、そこに飲み込まれたらもう地獄です。見るとイエス様は眠っておられるではありませんか。弟子たちは「イエス様、イエス様、起きて下さい。寝ている時なんかじゃありません。助けて下さい、溺れそうです」。そうしたらイエス様は目を覚まして言うんです。「何故、怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。そして起き上がって「コラッ、黙れ。静まれ」と風と湖をお叱りになったのです。そうしたら何と、風は止み、波は静まって鏡のように凪になりました。その時弟子たちは驚いて「風や湖さえも従ってしまう」。そして思いました。「この方は一体誰? どういう方なのだろう」。とにかくイエス様のお蔭で助かったのです。後からこの出来事を伝え聞いた人々も同じように「誰? この方は」と思いました。

 

次は一一章。イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネという人がいました。自分は何も悪いことをしていないのに、真っ暗な牢屋に入れられてしまった人です。自分の弟子たちをイエス様の所に行かせ、質問して尋ねました。「来るべき方、メシア=救い主はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」。

そうしたらイエス様は答えて下さいました。「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私に躓かない人は幸いである」。ヨハネはこの方は本当にメシア=救い主かもしれないと光が射しこんで来たような手応えを感じました。

 

次は一二章二二節以下、目が見えず口の利けない人がいました。人々がその人をイエス様の所に連れて行きました。イエスさまがその人を癒して下さり、ものが言えるようになりました。目も見えるようになりました。それ見た群衆たちは皆、驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。

けれども、反対にこういう風に言う人もいました。「悪霊を追い出すのは、このイエスが悪霊の頭だからだろ」。イエスが救い主だなんて思いたくない人たちがいたようです。イエス様は仰いました。「もし私が悪霊の頭で、他の悪霊を追い出して内輪もめしていたら喧嘩になってしまう。そうではなくて、私は神様の霊で悪霊を追い出して、それで神の国はあなたたちの所に来ているんですよ」。イエス様は悪霊の頭ですかね?

 

次は一三章五三節以下。ある時イエス様は、お育ちになったナザレの故郷にお帰りになりました。みんなが「久しぶりだね、元気だった?」とイエス様を迎えます。イエス様が会堂でお話しするんだって。みんなで聞きに行こう。会堂でイエス様はとっても素晴らしい神さまの福音をお話しして下さいました。それからきっと、病気の人を癒して下さいました。ところがそれを見聞きした人たちは、何でこんなすごいことが出来るの? とイエス様に躓いてしまいました。せっかくイエス様が来て下ったのに「メシア=救い主がこのナザレの町にも来て下さった」と喜ぶことが出来ません。

 

次は一四章二二節以下。また湖での舟での話。今度は弟子たちだけで沖に漕ぎ出します。もう夕方です。また波が高くなってきました。逆風で波に悩まされて、進みたくても進めません。湖の真ん中で何時間も経ってしまいました。どうしよう、どうしようと不安は募るばかりです。とその時、向こうの方から何やら誰かがやって来るみたい。あれ何? 誰? みんな「幽霊だ」と言って怯え

「怖いよ~」、と叫び声をあげました。すると聞き慣れた声、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」。はっきり御顔も見えてきました。幽霊ではありません。イエスさまだったんです。

それでペトロが「主よ、あなたでしたか。それなら私に命じて、そちらに行かせて下さい」。イエス様が「来なさい」。それでペトロは舟から降りて水の上を歩き始めます。じっとイエス様の方を向いて御顔を見つめながらです。ところがそこにビューンと強い風が吹いてきて、そちらに気を取られると怖くなって沈みかけました。思わず、「主よ、助けて下さいっ!」。イエスさまはすぐ寄って来られ手を伸ばして掴まえて下さいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。二人が舟に乗り込むと、風は静まったのでした。そこでペトロも舟にいた人たちも、今度は言いました。「本当にあなたは神の子です」。

 

そして今日の一六章です。イエス様がお尋ねになりました。一五節~、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」。イエス様に真正面から問いかけられました。そしてシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。今度はペトロも弟子たちを代表して、イエス様に向いて、いわば正式に信仰を告白した訳です。信仰の告白は、急に聞かれて急に応えられるものではありません。一体この方は誰だろうと疑問に思ったり、躓いたり、信じられるものかと強く疑ったり、でも、もしかすると…と思い、そうやって色々悩みながら、「やはりあなたはメシア=救い主、神の子、イエス様です」と応えられるようになります。このように告白出来るようになるために大事なのは、もしかすると来るべき方はあなたなのかなと問いかけるようにしながら、主イエスと共に居続けることです。故郷の人たちはその後、イエス様に従わなかった、悪霊の頭だなどと言った人も敵対し続けました。心は一緒ではなかった。

 

主イエスと共に居続ける、それがどこかと言うと教会です。イエス様は続けてお語りになりました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」。イエス様のお姿を、メシア=救い主であると示し表して下さるのは父なる神様ご自身です。そして「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる」。岩というのは告白する信仰のことです。この上に教会が建ちます、父なる神様が、イエス様が誰であるのかを現し、聖霊の導きを以て私たちに、それに応える告白の言葉と信仰を備え、それが満ちているのが教会です。

主イエスはこうもお語りになりました。陰府の力もこれに対抗できない。陰府の力、そのまま読みますと「陰府の門」です。風が吹いて、来る。波が高くなる。そちらに気をとられて主イエスを見失うと色々な所で陰府の門が開く。その時、人はうなだれる。呻く。そこで待ち望もう。「安心しなさい。私だ」。主イエスにこそ天の門がしっかりと開いている。御手が掴まえて下さる。そして、詩編にもありました。私はなお、告白しよう。「御顔こそ、私の救い」と(四三・五)。こうやって教会に通い集い、いつも主イエスの御顔とお姿を見出し、お言葉を聞くことが出来ます。

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