イザヤ二六・一九~二一
マタイ二五・四五~二六、二
順に使徒信条に添って御言葉を味わっています。使徒信条は、教会が信じる内容としてこの二千年間、受け継いできたものです。私たちの教会も代々の聖徒と共に使徒信条を告白=同意しています。さて今日の主題は、二段落目の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」です。
天国と地獄、あると思われますか。私は、ある、とまず申し上げたい。ただ、私たちが地獄に落とされることはない。むしろ全ての人が救われ主の御名をたたえる万民の礼拝が実現する天国=御国がある、と確信します。「主イエスよ、来て下さい」と安心して言える。これが今日の主題です。
「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」。今日の使徒信条の中で一番気になる言葉はやはり「審き給わん」でしょうか。
神様は裁判官としての権能をお持ちです。イザヤ書、さあ、わが民よ、部屋に入れ。戸を堅く閉ざせ。しばらくの間、隠れよ、激しい憤りが過ぎ去るまで。見よ、主はその御座を出て、地に住む者に、それぞれの罪を問われる。大地はそこに流された血をあらわに示し、殺された者をもはや隠そうとはしない(イザヤ二六・二〇~)。主なる神は、罪を問う。殺された者が殺されたまま隠れて終わることはない。神は善悪を問うておられ「悪い事は悪い」と事柄を明確にします。悪人が得をするままで終わらせない。主であられるということは、悪いことに対して、それは悪いことだ、と反省を求めます。
マタイ福音書は永遠の罰を語っています。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ二五・四五)。私は大丈夫、私は正しい人たちのグループに入ります、と自信を以て言える人がどれだけいるでしょうか。裁判官であられる神様の御前には、義人はいない、一人もいない(ローマ三・一〇・一、口語訳)。そして永遠の罰です。罰が終わる希望もない。救われる可能性の閉ざされた永遠の罰です。裁き主なる神に見捨てられる永遠の罰です。
マタイ福音書は一八章以下で譬え話を記していますが、主イエスは各々の譬え話の終わりで、裁きを語ります。そして二五章で永遠の罰と永遠の命の言及で譬え話が終わります。
そして次に主イエスはこう続けられました。イエスはこれらの言葉を全て語り終えると、弟子たちに言われた。「あなた方も知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(二六・一~)。主イエスは永遠の罰を語り終えて、ご自身の十字架に言及されました。それは、神に見捨てられる永遠の罰を語ってきたが、それを担うのが私の十字架なのだ、とここで十字架の内容を語られたのです。ただ死なれるのではない、義人は一人もいない、その全ての人の罪とその罰を負うために十字架にかかるのだ。だから主イエスは十字架上でこう大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」=我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか(マタイ二七・四六)。主イエス・キリストが全ての人の罪を負い、その罰として神に見捨てられ永遠の罰を受けられた。神の御子キリストは陰府に降られたのでした。それで、私たちはこの罰を受けることはなくなりました。地獄はあるけれども、私たちがここに行く必要はなくなった。
使徒信条の「審き給わん」。日本語の表記で、裁判の「裁」ではなく、審判の「審」という漢字を用いていることを前向きに受け止めたいと願います。裁判の裁くだと、裁判官が有罪か無罪かを決めるイメージがあります。審判の審だと善悪の評価と言うより、審判員が事柄を明らかにするイメージがあります。例えば野球の審判員は、ボールかストライクか、アウトかセーフか、事柄を明らかにします。神が明らかになさることは何か? もちろん、善悪を明らかにします。それだけではない。ここで明らかになるのは「神は神、人は人」ということです。パウロは語りました。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ一四・九)。全ての人々、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。キリストは救い主、私たちは救われる一人ひとりだということです。これを審判員として明らかになさった、ということです。
「かしこより来たりて」。かしことはどこか。一つにはキリストが永遠の罰を担われた陰府です。そしてもう一つ、甦らされて今は神の右に坐したもう神の右の座です。そこで私たちを執り成して下さっておられる神の右の座です。陰府でも、神の右の座でも、キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
終末の時、キリストはかしこより来たりたもう。
来たりて、一方では悪は悪として事柄を明らかになさり、他方では全ての者にキリストが十字架の主、救い主となりたもう。その時、万民がキリストをほめたたえる、万民の礼拝が実現する。天国=御国が全き仕方で来る。私たちは、世の完成、御国の到来を待ち望みます。
以上全てを証しする方が、言われる。「然り、私はすぐに来る」。アーメン、主イエスよ、来てください(ヨハネの黙示録二二・二〇)。そして、主イエスの恵みが、全ての者と共にあるように。これが、旧新約聖書全六六巻、一番最後の言葉、結論です。