日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年8月2日 説教:森田恭一郎牧師

「神の愛、何でも出来る、救うため」

イザヤ四三・一、七
マタイ一九・二三~二六

先々週から実は使徒信条に添って御言葉を味わい始めました。教会学校教案に従ったものです。井上良作チャプレンが「河内長野教会に期待すること」の題で文章を執筆下さいました。先週、井上チャプレンが説教下さいました「地域に橋を架ける」もその一つですが、最初に「福音に立ち続ける教会」期待を記しておられます。

教会が福音に立ち続けるために三つ必要なことがあります。一番目は正典、聖書のことです。教会がもし、お寺のお経を話し続けたら教会にはなりません。二番目が信条、信条は教会が聖書から何を聞き取り信じるのか、その内容を明らかにしたもので、逆に聖書を読むときには信条に基づいて読みます。使徒信条はその一番基本的な信条です。三つ目が職制、信条に基づいて聖書を説き明かし正しく聖礼典を執り行う教職のことです。教職を建てていく制度です。カトリック教会では神父、プロテスタント教会では牧師などと言います。

それで使徒信条、教会が福音に立ち続けるために必要なものとして使徒信条を味わって行きます。

 

使徒信条の最初は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」。先々週には「我は信ず」を巡ってお話ししました。今日は、信じる内容として語り始めた「天地の造り主、全能の父なる神」を聖書の言葉から味わって行きます。

内容的順序から整理するとまず、「父なる神」。ただ神を信じます、ではありません。無機質な神ではなく、人格を持った父なる神。父なる神の本質は愛です。そして、「父」があるから「子」があります。本来の子は、御子イエス・キリストのみですが、私たちも、父なる神様の愛の故に神の子たちとされます。父なる神より母なる神の方が優しい愛の神様というイメージを持てて良いのではないかと感じる人もいるかもしれませんが、母なる神とは聖書では言わない。それは歴史の中に正義を貫く神が必要とされてきたのでしょう。人間の言葉としては父で表現します。そして主イエス・キリストが神を親しみを込めて「アッバ、父よ」(ガラテヤ四・六)と呼んだことが決定的です。

 

次に「全能なる神」です。全能とは何でも出来るということですが、神様が我がまま放題になさるということではありません。愛と正義の意思を以て能力を発揮されます。ある時主イエスがこう言われました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がもっと易しい」(マタイ一九・二四)。当時、神様の祝福を受けてお金持ちになれる、と一般的に思われていたようです。それで、らくだが針の穴を通る方が易しいとなると、お金持ちは神の国に入れない、まして祝福を受けていない貧しい人は、神の国には尚更入れない。不可能だと思えた。それで弟子たちが「それでは誰が救われるのだろうか」と言うと、主イエスは彼らを見つめてこうお答えになりました。「それは人間に出来る事ではないが、神は何でも出来る」。つまり、救うために神の全能は発揮される、ということです。人類が祝福されるように我がままな人間の悪や罪を十字架で贖いとって下さいました。悪いことをしても甘やかしてただ赦すというのではない。主イエスが罪や悪を背負って私たちの代わりに十字架で裁かれる、その正義があり、その上での赦しと愛、励ましがある。

 

次に「造り主なる神」。聖書は、天地万物、生物もそして人間も、神がお造りになったのだと語ります。この自分を神がお造りになった、これを信じますか、それとも、進化論で人類が生まれてきたと自然の経過の中で、自分がいると信じますか。進化論から行くと人間の祖先は猿になりますか。私は、私を神様がお造り下さったのだと信じます。その方が生きる力になります。そもそも、宇宙があり地球があり、生物が誕生し、人類となり、旧約のイエスラエルとなり、私たちがいる。先ほど主イエスが弟子たちを見つめられたという記事がありましたが、私たちは神様からの眼差しの中で生まれてきたし、今も生かされている。しかも天地創造の前からのご計画と眼差しの中で生まれてきたし、今も眼差しの中で生かされている。

 

これらのことは自然科学で証明できることではありません。証明不可能性は同時に反対の事、これは間違っているとも自然科学では証明できません。信じることです。「我信ず」って。

イザヤはイスラエルの民に対する神様からの呼びかけを聴きました。ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな。私はあなたを贖う。あなたは私のものだ。私はあなたの名を呼ぶ(イザヤ四三・一)。父なる神様が愛の故にあなたを造った。あなたは私のもの。だから放り捨てはしない。大事に宝物のようにする。名を呼ぶ。もし自分が学校で、社会で、誰からも見向きもされない孤独を味わうことがあったら、神様が「私はあなたの名を呼ぶ」、これを信じるなら、どれ程、呼び掛けに支えられて生きて行くことが出来るでしょうか。

イザヤは続けて神様からの呼びかけを聴きました。「彼らは皆、私の名によって呼ばれる者。私の栄光のために創造し、形造り、完成した者」(イザヤ四三・七)。神様の者とされて生かされているんだ、と表情が明るくなって生きていたら、それは神の栄光を映し出していることになります。どのような人生であっても、父なる神愛され、キリストの十字架によって神の全力を以て救われ、主の眼差しの中に生かされ、栄光を指し示す使命が私たちの人生にはある訳です。

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