日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年4月12日 説教:森田恭一郎牧師

「復活の主、私の神よ」

ルツ記 一・一六~一七
ヨハネ二〇・二七~二九

主イエスのお甦りを記念するイースター、おめでとうございます。この幸いな日に、今日の礼拝では洗礼式を執り行うこととなりました。それで今日の聖書箇所と受洗者の方(Kさん)と重ね合わせながらお話をします。今日の主題は「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」(ルツ記一・一六)。洗礼式にあたりこの聖句を私からKさんにお贈りしたいと思います。

 

この聖句は、ナオミの息子の妻であるルツの言葉です。ナオミはルツの姑でイスラエルの民、ルツはもともとモアブの民です。ルツの夫が亡くなり、ナオミにとっても息子が亡くなったので、ナオミはイスラエルに帰ることにしました。そして孫も授かっていなかったのでナオミはルツに対して、「自分の里に帰りなさい」(ルツ記一・八)と勧めました。そのまま帰るなら、ルツが信じる神様も元のモアブの神様になる訳です。ところがその時のルツの返答は「私はあなたの行かれる所に行きます」というものでした。その理由は「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」であるから。なぜこう告白出来るのか。それは信仰者としての夫の姿、姑の姿を見ながら、きっとモアブの神を信じる者の姿との違いを見出していた。その証しの姿に、今気付いた。

Kさんはおよそ二十年前、河内長野教会員であった夫のJさんを天に送り、教会のお墓に納骨されました。そしてその後、Kさんは教会の礼拝には月一回通い続けられました。その理由は、一つには教会員から「月一回でもいいから礼拝にいらっしゃい」と言ってもらえたから。二つ目には「夫の信仰」に添いたいとお考えになったからです。それ故、夫の信仰を育んだ河内長野教会の礼拝に通い続けられました。

この二十年間の課題は、夫の信仰に寄り添うにしても、夫の信仰に寄り添うのであって、自分の信仰にならない、「あなたの神」がなかなか「私の神」にならないということです。もちろん礼拝に集えば、親しくして下さる方々と出会えて、それは嬉しいことでした。それで当面は礼拝に出席しようと思えた。でも二十年来の親しい方々もご高齢になり亡くなられて、少しずつ人数は少なくなっていく。人との繋がりで礼拝に集っているだけなら続かなくなります。

でも、Kさんは礼拝に集い続けた。何故か? それは教会員の親しい交わりがあったからですが、そこに何よりも聖霊のお支えがあったからでしょう。この二十年間を経てKさんは今、キリストに出会うために礼拝に招かれていると素直に思えるようになった、とのことです。キリストの体である教会へのお招きを受け取られ召命を得られた訳です。信仰の民に招かれ「あなたの民は私の民」になった。キリストに礼拝をささげる教会の民への招きを通して、ここから「あなたの神は私の神」になったのです。

 

さて、トマスは、主イエスのお甦りの知らせを聞いたとき、それを信じることがなかなか出来ませんでした。理由は簡単です。死人が甦るなんてそんなことあるか。その気持ちは、あると言うなら、証拠を示してもらいたい。トマスは他の弟子たちに言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をの脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(ヨハネ二〇・二五)。

それから八日の後、主イエスが顕れてトマスに語りかけます。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。そう言われてトマスは答えました。「私の主、私の神よ」。このトマスの返答から三つ、意味を受けとめたい。

 

一つ目は、十字架で釘を打たれた手と脇腹の傷跡を見て、十字架で亡くなられた方が確かに甦られたと甦りの事実を納得したということ。

二つ目は、トマスの返答が、あなたは確かに十字架で亡くなられた「私の主」人間イエス様ですね、で終わらなかった。「私の神よ」と主イエスを神と告白したということです。

そして三つ目、これが今日、皆さんと共有したいことです。それは神様であられる主イエスを、自分にとって「私の神」と告白したことです。他の弟子たちの神でもなく、自分にとって遠くにおられる主なる神、というのでもなく、グッと自分に迫ってきて「私の神」となって下さった、と告白できた。これは聖霊の導きですね。

聖霊の導きと言えばもう一つ、他の弟子たちが 「私たちは(復活の)主を見た」(ヨハネ二〇・二五)と言い合っている。その弟子たちの中から、自分はそんなこと信じられないと言って、七日目までの内に弟子たちの交わりから出て行かなかった。私たちで言えば教会から離れなかった。これも聖霊のお支えではないでしょうか。トマスに相応しい八日目の次の日曜日に時満ちて、神の御子主イエスとの出会いが備えられた。

洗礼と共にある信仰告白、Kさんの今日の信仰の確信は、ルツの「あなたの神は私の神」と、トマスの 「主イエスは私の神」に至る信仰の告白と重なります。

 

そして皆さん、終わりにもう一つイースターに確信したいことがあります。「主イエスの復活は私の復活」、主イエスが復活されたのだからこの自分も、私も甦らされるということです。フィリピ書は語ります。キリストは、万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです(フィリピ三・二一)。主イエス・キリストの栄光ある体と同じ姿に、というのは随分畏れ多いことですが、これは私たち約束されている、この自分の復活のことです。

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