日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年10月27日 説教:森田恭一郎牧師

「主にあって、何を願って期待する?」

エゼキエル二三・三二~三五
マルコ  一〇・三五~四五

今日は『A・D・ヘールに学ぶ』の伝道旅行の開始(五一頁~)をきっかけに考えたいと思います。著者、中山昇によりますと、大阪西教会、大阪東教会の設立、河内伝道、紀州伝道、全てが二人(A・D・ヘールと弟J・B・ヘール)の徹底した、キリストに拠るチームワークで、より豊かな成果を生んだ、というのです。そして、全く同じ使命に生きて、しかも、ヨハネやヤコブがキリストの右は左に置いて欲しいと願ったような間違いは露ほども犯さず、一つの体の肢として互に励み、互に助けて、ひたすらキリストの御名の崇められる琴を願った素晴らしい模範である。どちらがより多くの成果を残したか張り合う、などということなく、主にある一致があった、という訳です。                           そこで、ヨハネやヤコブのこの該当箇所なのですが、この二人が進み出て、主イエスに願い事をします。主イエスが「何をして欲しいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私共の一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」(マルコ一〇・三五~)。自分たちの栄光を求めたようです。

これに対して主イエスは言われました。「あなた方は、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることが出来るか」。彼らが「出来ます」と言うと…とやり取りが続きます。よくもまぁ「出来ます」などと言えたものだと思います。でも主イエスが「確かに、あなた方は私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる」と言われたので不思議に思えます。何故なら、この杯はや洗礼は、主イエスの場合は、十字架の死を意味しているからです。その主イエスの杯を私たちも飲み、その洗礼を受けるとはどういうことか分かりにくいからです。

杯、エゼキエル書では、異邦の神々に頼って滅亡したサマリヤの歴史を姉の杯に譬えて、ユダのイスラエル王国も異邦の神々を頼る限り、その杯を飲み干して滅びることになる、と告げています。姉の杯を、お前は飲まねばならぬ。深くて大きい杯を。お前は嘲られ、侮られる。杯は満ち溢れている(エゼキエル二三・三二~三五)。その杯は主なる神の怒りの杯、滅びの杯です。             けれども主イエスはその怒りや滅びの杯を御自身が受けることによって、私たちには、喜びの杯を備えて下さいます。その主イエスの十字架を経ての杯を私たちは飲むことになります。

 

十二弟子の他の十人が、ヤコブとヨハネの願い事を聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたのでした。ですからどの弟子達も、言ってみれば皆、自分の栄誉を求めた訳です。これに対して主イエスは結論として御自分のお姿を提示なさいました。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ一〇・四五)。 贖いとしての十字架、十字架の意味を語りました。私たちの信じる神の御子のお姿が、仕えるお姿である。こんな神様は他にあるでしょうか。他の神々は仕えさせる神々です。また主なる神様は栄光をお受けになるのは当然ですが、一足飛びに神々しい栄光ではなく、仕えることを通しての栄光のお姿です。これらのことは、私たちに、キリストの価値観を示していると言えるでしょう。                         昨日、清教学園幼稚園と聖愛保育園合同の保育者研修会がありました。主題が「保育とは?~神様が託して下さった役割から考える~」。言うまでもなく、キリスト教保育とは、という主題です。ご講演をそのまま紹介するいとまがないのですが、親や周囲の大人が子どもに願いがちなのは、親の言うことを聞いてくれる良い子、出来る子に育てる。そうやって結果や成果を求め、親や大人にとって有意義に思える子どもを自分の思い通りに育てる。しかしこれは今日の説教の言葉で申しますと…、親や大人たちが乳幼児達に何を願っているか分かっていない、ということです。      それに対してキリスト教保育は、出来るようになったという成果を求めるのではなく、その時、その時の子を受けとめ理解すること、言い換えれば、親や大人達から愛され信頼されていることを体得して、子どもも親や大人を基本的に信頼し、誕生日に生まれてきて良かった、今日生きていて良いんだ、これからも生きて行こう、と自己肯定、人生肯定が出来る基礎を培うことです。親が子どもに願うことを期待し押しつけるのではなく、子どもに対する神様の願い、ご計画に思いを向けるということです。いのちという言葉がありますが、それは身体的な心臓が動くいのちと共に、生き生きと生きる心のいのちもありましょう。それは神様の願いが子どもたち一人ひとりに備えられた「いのち」でありましょう。このいのちが、子ども自身の中に育ってくるのを、環境を整えて応援する。このいのちの力に対する信頼をもって、日々の子どもたちの姿を見守る。これがキリスト教保育だと改めて思わされました。

そして、こういうキリスト教保育観はどこから来るかと言うと、キリストが私たちに仕えて下さったことから来ると言えるのではないでしょうか。もしキリストがご自分を中心にして、キリストの期待に添う人間だけを愛するとしたら、愛して戴けるに相応しい、期待に応えられる人間などいません。キリストがいのちの成長のために子どもたちにも仕えて下さっておられると信じます。                           あの二人の弟子は「出来ます」と答えました。出来る訳ない、と初めは思いましたが、キリストがこのように仕えて下さり、それ程までに私たちを愛して下さるのですから、そこをしっかり受けとめて、親も大人も、子どもに仕えることが出来る訳です。仕えるというのは、子どもの言いなりになったり、我が儘を助長させたりすることではありません。本人のことを思って「いけない事はいけない」と叱ります。でもそれは親の言いなりにさせることでもありません。子どもを守るためです。そして、子ども自身に生きさせる。考えさせる。自ら育つ力を信じて、それを応援します。

 

「出来ます」。これは保育だけではありません。キリストが言われました。異邦人の間では、支配者と見做されている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない(マルコ一〇・四二~)。あなた方の間では既に「そうではない」。キリストが仕えて下さっているからです。キリスト教保育観だけではありません。キリストがお仕え下さる事から生じてくるキリスト教人生観も同じです。そう思って自らを顧みますと、皆さんは教会の中で仕えておられるではありませんか。家族・親族の中でも、日頃から、また病になった人がいたら尚更、仕えているではありませんか。友人関係の中でも、仕える思いを持っておられるでしょう。   私たちはキリストではありませんから百%仕えきれてはいないかもしれません。けれどもだから、主イエスは、私たちにその方向のまま「仕える者になり、全ての人の僕になりなさい」と私たちの生きる姿勢を応援しておられます。        詩編も歌います。主は私に与えられた分、私の杯。主は私の運命を支える方。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを戴きます(詩編一六・五、一一)。お仕え下さるキリストを仰ぎ、そこから主キリストは私に与えられた分、私の杯です。私たちはキリストの喜び祝う杯を飲み、仕える人生を生きることが出来ます。ヘール兄弟もまた、共に仕え合い歩まれたのでした。当教会はその中から生まれた教会です。

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