日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年5月26日 説教:森田恭一郎牧師

「幸いだ、主が共にいる人々は」

マタイ五・一~一一

主イエスは「あなた方は幸いである」(マタイ五・一一)と幸いを語って下さいます。幸い、幸せ。

幸せ、というと英語で言うと「ハッピー」ですか?「やったぁ、ラッキー」ですか? 違います。高校生なら聞いたことありますか。ブレス。ゴッド ブレスドゥ ユー。「神様の祝福があなたに」。ここでの幸いのニュアンスは「祝福」です。呪いではありません。祝福です。

 

だから主イエスがお語りになる幸せは、何だか普通と違います。悲しむ人々は幸いである(マタイ五・四)。悲しい時って、ハッピーですか?  悲しいのですから「幸せ」とはとても言えません。でも幸いなのです! 何故でしょう? その人たちは慰められるからです。何か悲しいことがあった、その時、主イエスから慰めてもらえるのなら、その時、祝福の幸いの中にいるんです。反対に慰めてくれる人がいない。寂しさが続きますね。例えば、小さな子どもが、かけっこして転んで膝小僧をすりむいちゃった。痛くて泣き出します。それは決してハピーではありません。でもお母さんが来てくれると思うから泣くことが出来ます。そしてそこにお母さんが駆け寄ってきて「大丈夫?大丈夫よ」と慰めてくれたら子どもは泣き止みます。それって母親の祝福の幸せなのですね。

 

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである(マタイ五・三)。このお言葉も不思議です。心の貧しい人々というのは、四文字熟語で言うと、虚心坦懐の心。わだかまりなく素直に受けとめる心。神様の恵みを必要としているということです。誰だって本当は神様の恵みを必要としています。だから誰もが幸いなのですが、その事に気付かなかったり素直にお願いできない人は、幸いではありません。祝福を必要だと思っていないからです。

 

星野富弘という詩を書く詩人の絵描きさんがいます。つい先日天に召されました。元々は体育の先生でした。鉄棒で落ちてしまって、首の神経を痛めて、その時から首から下の身体を全く動かせなくなりました。まだ若い二四才の時でした。

それはハッピーですか? とんでもありません。不幸せ、不幸のどん底になったと思います。自分一人では何も出来ない。それが一生続くことになります。

でも、その後、教会のある牧師との出会いを通して神様の祝福の中を自覚して生きるようになります。首から下は動かないままです。口に筆を加えて、詩を詠み、絵を描くようになりました。

 

今日は五月の第二週、母の日ですけれど、星野富弘さんの詩、ポエムがあります。今朝の新聞に紹介されていました(朝日新聞)。

神様がたった一度だけ、この腕を動かして下さるとしたら(皆さんだったら何をしますか?)、母の肩をたたかせてもらおう。風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら、そんな日が、本当に来るような気がした。

星野富弘さんは生きるためには、毎日、母親やその後出会った妻からの支えを必要としました。ブーンと蚊が止まる。その蚊、一匹を払うのもしてもらわなければならない。その分、自分は神様のお支え、恵みを必要としている、そのことを素直に思うことが出来ました。星野富弘さんも心の貧しい人ですね。自分は神様の恵みが必要だ、と素直に、わだかまりなく思える。

 

イエス様がお語りになる幸いは、ハッピーとは違います。辛くて悲しい中でも、身体は動かないままでも、イエス様からの祝福を信じることが出来る、そういう幸いです。「そんな日が本当に来るような気がした」。この言葉は天の国の祝福を信じ、祝福の中を生きている人の言葉ですね。

そしてイエス様は今日も、私たちにも「あなた方は幸いである」と祝福の幸いを告げて下さいます。

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