創世記一五・ 五~六
ヨハネ二〇・二四~二九
今日、心に留めたいイエス様のお言葉が二つあります。一つ目は 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ二〇・二七)。二つ目は 「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ二〇・二九)。
信じる事については、創世記でもアブラムが主を信じた記事があります(創世記一五・五~六)。いつも見るあの満天の星空でしたが、そこに主の御言葉が重なって「あなたの子孫はこのようになる」とこの星空が迫ってきました。それで、アブラムは主を信じたのでした。
今日、聖書は「信じる者になりなさい」と語りかけます。十字架で死んだイエス・キリストが死人の内より甦られた、ご復活された、と信じよう。死んだ人が甦るなんて普通は信じられません。でも本当にキリストは甦ったのです。
♪ああ、キリストは、本当に甦ったのだ、
ハレルヤ、ハレルヤ、アーメン♪(こども八八番)。皆さんも「本当にそうだ、アーメン」と信じて、歌って欲しい。キリストが甦られた、これは、頭で考える理屈ではなく出来事です。
十字架から金、土、日の三日目のことです。イエス様は甦られました。イエス様はマグダラのマリアに顕れました。それでマリアは 「私は主を見ました」(ヨハネ二〇・一八)とお弟子さんたちに伝えます。ところが、せっかく良い知らせを聞いたのに、弟子たちは信じられません。その日の夕方、弟子たちがいた家の中にイエス様が来られて「あなた方に平和があるように」と言われました。そして十字架の傷跡のある手と脇腹をお見せになりました。弟子たちは主を見て喜んだのでした。ただその時、そこにトマスはいませんでした。
その後トマスがやって来たので、他の弟子たちはきっと興奮して口々に「私たちは主を見た」とトマスに伝えます、でもトマスは、その知らせを聞いても、お甦りを信じることがなかなか出来ませんでした。理由は簡単です。死人が甦るなんてそんなことあるか。もしあると言うなら、証拠を示してもらいたい。トマスは他の弟子たちに言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(ヨハネ二〇・二五)。
それから八日の後、幸い、トマスも他の弟子たちの所から出て行くことなく共にいました。皆の所に主イエスが顕れ、トマスにも語りかけます。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。聖句カードを見て下さい(二〇〇三年度版No.5)。
手の傷跡をしっかりと見ています。十字架で死んだあのイエス様が本当に甦ったのだ。このイエス様に出会ってトマスは信じる者になりました。跪いています。礼拝の姿勢になっています。イエス様を「神様だ」と信じたからです。私に顕れ、私の罪を十字架で負って下さった「私」の神様だと告白出来ました。「私の主、私の神よ」と答えました。
今日、心に留めたいイエス様のお言葉二つ目は「見ないのに信じる人は、幸いである」。十字架の傷跡のあるイエス様がトマスに出会って下さり、トマスはお甦りのイエス様を確かに見ました。本当に甦ったのだ。そう信じました。トマスだけではありません。他の弟子たちも、「私たちは主を見た」。マグダラのマリアも「私は主を見ました」。見て信じました。ですから、イエス様が甦られたことは、思い込みではありません。まして頭で考えて悟りを開いたというのでもありません。ご復活の出来事です。
それでイエス様がいいました。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。私が甦った、死人の内から復活した。本当だろう。確かに見ただろう。確かに見て確信して信じたのだから、見た以上は、もうこれからは、その都度私を見なくても信じられるね。このイエス様のお言葉は、同時にイエス様に肉眼でお目にかかることのない後の時代の私たちに向けて語られたお言葉だとも受けとめられます。パウロも言いました。「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(Ⅱコリント四・一八)と。
あなたたちは「私たちは、主を見た。ああ、キリストは本当に甦ったのだ。ハレルヤ、ハレルヤ、アーメン」と見たことを宣べ伝えなさい。そうすれば、あなたたちから聴いた人たちも、見なくても信じて生きる幸いを知るだろう。
そしてもう一つ、復活の主イエスを見た以上は、自分たちも死んで終わりではない。弟子たちは、全ての人たちも甦らされる、そう信じました。私たちの甦りをも宣べ伝えています。