日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年2月18日 説教:森田恭一郎牧師

「見えるものは 見えないものから」

エレミヤ一七・七~八
ガラテヤ 五・二~六

今日の主題を先に申し上げておきますと、愛の実践を伴う信仰(ガラテヤ五・六)です。

主題の前に、今日の説教題「見えるものは見えないものから」について語っておきます。この表題はヘブライ書一一章三節からつけました。この世界が神の言葉によって創造され、従って、見えるものは、目に見えているものから出来たのではない。目に見える世界は、見えない神の言葉によって創造された。神の言葉も見えないし、神が創造されたことも見えません。見える世界は見えない神の言葉からという関係は、見える世界は見えない神の言葉を明らかにしているとも言えます。

 

このような見えるものと見えないものの関わりは他にもあります。エレミヤは、信仰者の姿を水のほとりに植えられた木(エレミヤ一七・八)に例えています。水路のほとりに根を張っている。この水路と根っこの部分は見えません。でもこの見えない事実があるからこそ、暑さが襲っても見るからにその葉は青々としているし、干魃の年にも実を結ぶのとを目にすることになる。見えない水路と根っこが、青々とした葉、豊かに実る実をもたらします。

私たちもこの木と同じですね。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人の拠り所となられる(エレミヤ一七・七)。水路のように主がその人の拠り所となられ、根を張るようにして主に信頼し、豊かに葉を繁らせ実をならせるように主が祝福して下さる。

先週の説教で、信仰とは見えないものに目を注ぐ(Ⅱコリント四・一八)こと、信仰とは見えない事実を確認すること (ヘブライ一一・一) とお話し致しました。 例に挙げたのは母親が幼子を抱っこすることです。見えない母の愛は抱っこすることを通して幼子に見えるものになります。幼子は見える抱っこの行為を通して見えない母の愛に目を注ぎます。ここにも見えるものと見えないものの繋がりがあります。

 

この見えない事実を、随分ショッキングな表現で語っています。もし割礼を受けるなら、あなた方にとってキリストは何の役にも立たない方になります(ガラテヤ五・二)。キリストが役に立たない方となるなんてショックです。もっともキリストに対して役に立つかなんて、失礼な言い方にも感じますが、あなた方に用のない者になる(口語訳)。我々がキリストを用のない者にしてしまう、我々がキリストを役立たず者にしてしまうということです。それにしたってショックです。

それからショッキングな表現は、律法によって義とされようとするなら、あなた方は誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、戴いた恵みも失います(ガラテヤ五・四)。せっかくの恵みを失いたくないですよね。

「救われるためにはキリストだけでは不充分で、律法も守らないと駄目だ」という考え方は、私たち信仰者がキリストを役に立たない者にしてしまい、恵みを手放してしまうことになる、とパウロは言っている訳です。

パウロはもちろん、信仰こそ大切ですと言っているのですが、それなら大切な信仰の中身は何か、それは、キリストとその恵み。これが信仰が確認する見えない事実です。ヘブライ書にこういう聖句があります。食物の規定に従って生きた者は、益を受けませんでした(ヘブライ一三・九)。反対に食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのは良いことです。恵みを失ってはいけない。

 

ここから本日の主題、愛の実践を伴う信仰 (ガラテヤ五・六)。これも見えるものは見えないものからということと同じです。見えない信仰が愛の実践を通して見えるものとなります。愛の実践を伴って見えるものになります。

ここで味わいたいことは、「見えないものに目を注ぐのが信仰だ、だから信仰こそ大切です」にならずに、愛の実践を伴う信仰こそ大切ですと愛の実践とセットになって信仰を語っていることです。それは何故だろうか。パウロが闘っている相手の考え方は「キリストを信じる信仰だけでは不充分だ、律法も守らないと救われない」という考え方です。パウロにしてみればそれは違う。律法遵守では益は受けられない。それなら「信仰こそ大切です」で良さそうなものなのに、愛の実践とセットになっている信仰、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と語るのは何故だろうか。

愛の実践の大切さ、それから愛の実践を勧める律法が大事なのは言うまでもありません。それは信仰者でなくても知っています。何が問題かと言うと、愛の実践が大事だとなって信仰が抜け落ちることです。信仰が抜け落ちると、見えないものがそれこそ見えないままになる。だから愛の実践は、愛の実践それ自体の意義と共に、信仰を証するから大切、信仰が見据える目に見えないものを指し示すから大切なのです。

そこに通常の誰もが認める愛の実践と、聖書が語る隣人愛、その愛の実践の区別があります。

 

愛の実践、隣人愛は、実はその実践自体が目的ではありません。信仰とセットになって愛の実践を通して、信仰が目を注ぐ見えない事実が見えてくること、救いが伝わること、そこに隣人愛の意義があります。救いの恵みを戴き、キリストなしには自分の人生が成り立たないとなってくる、そしてキリストの栄光をたたえるに至る。自分も相手も救いの中に置かれて、共にキリストをたたえるようになる。愛の実践、隣人愛はそのためのものです。愛の実践を伴う信仰こそが大切なのです。

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