日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2026年7月12日 説教:森田恭一郎牧師

「神の栄光、世々限りなく」

詩編 七九・一六~一八
エフェソ三・二〇~二一

パウロは、神様の栄光をたたえる頌栄をもって祈りを締めくくっています(エフェソ三・二〇~)。今日はその後半の聖句を味わいます。教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなく神に在りますように(エフェソ三・二〇~二一)。今日の結論は「栄光神に」は私たちの信仰の姿勢から言うと、神に近づくということです。

 

神様は栄光に満ち、栄光の輝きに包まれておられます。栄光、それはマコトの神様がマコトの神様であられることの顕れです。

その神様がキリストによって、いと高き天上からこの地上に降りで来られてマコトの人となられたのでした。クリスマスの晩の出来事です。主の栄光が周りを照らす中、羊飼いたちが耳にした天使たちの賛美の歌声は、いと高き所には栄光、神に在れ(ルカ二・一四参照)。

本当は、神様のお姿は、私たちが太陽を直視出来ないように、私たちにとっては、あまりに眩しく畏れ多いお方です。近づき難い。その栄光を覆い隠すように、キリストは人となられて、この世に降誕なさり十字架におかかりになるのでした。いや反対に、天に輝く栄光がこのキリストによってこそ、輝いているのです。栄光を現わすのはまず誰よりも、キリストによって、ということです。

 

エフェソ書四章一六節以下のパウロの祈りは、このキリストが、聖霊により私たちへと近づき、私たちを包み、更には私たちの内へと入って住んで下さっておられることを言い表しています。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さの内に私たちを包み、あるいは信仰によって私たちの心の内にキリストを住まわせ、御力を私たちの内に働かせておられます。この後に与ります聖餐おいて、信仰を以てパンを食し杯から飲む時、私たちは、キリストの愛の迫りに包まれ、私たちの内にまでやって来られるキリストを体験します。私たちの罪の深さのもっと深い所、十字架の死に至る所まで降って来られたキリストを体験します。

 

ところが人間はこのことを知らない。信仰者の私たちでさえ日頃、このことを忘れていることが多い。旧約のイスラエルの民も同じです。忘れて、マコトの神様に背を向け、偶像の神々に従ってしまう。それで、マコトの神様はご自身の栄光が傷つけられていることをお怒りになり、国を滅ぼしイスラエルの人々をバビロニアに捕囚の民とされました。でも神の怒りに触れ裁かれて終わりではなかった。人々の祈りが生まれた。

今日読みました詩編は、国破れて、神に背を向けた自らの罪に気付いた人々の祈りの言葉です。どうか、私たちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けて下さい。私たちは弱り果てました。私たちの救いの神よ、私たちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせて下さい。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦し下さい(詩編七九・八~九)。この時の神の栄光は、罪を裁くことによって近づきがたい神のお姿を明らかにすることによって顕されるというより、罪を赦したもう神、罪を赦すことにおいて栄光を現わす神のお姿になっています。弱り果てた人々の罪の赦しにおいて、神の栄光が内に輝くまことの神であられ、自分たちがその民とされていることに人々は気付き立ち戻っていきます。

終わりの所の言葉はこうです。私たちはあなたの民、あなたに養われる羊の群れ。とこしえに、あなたに感謝をささげ、代々に、あなたの栄誉を語り伝えます。感謝をささげるとは、礼拝をささげることです。罪赦されて感謝をささげ、礼拝をささげる。罪の赦しを以て迫って来る愛の神様に、人々が応答できるのは、自分たちが神の民、養われる羊の群れと自覚して礼拝をささげることです。

 

エフェソ書は、キリストの愛を以て迫って来る神様に感謝をささげる、礼拝をささげる所から、私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信を以て、大胆に神に近づくことが出来る(エフェソ三・一二)と語ります。

そして、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。罪の赦しの愛のキリストへの感謝を以て礼拝をささげるこの頌栄の祈りもまた、神に近づく祈りになっているのですね。教会によりとあります。神の民の一員として教会の礼拝をささげて栄光を帰すということが、教会により、ということなのでしょう。

先週、配信のご奉仕を下さる方が、カメラのレンズを通して見える礼拝の様子を語ってくれました。上から見ると前の方がスカスカになっている。そこが配信の映像に映し出されている。カメラから目を離して見回せば、礼拝堂の後ろと横の部分には後姿が見えるのに、前の所には見えない。先週は人数が少なく特にそうだったのかもしれません。それで、各々落ち着く席はあるのでしょうけれどもっと前の方に座りましょう、映像に皆さんが映し出されれば、ご覧になる方たちも、より一層、一緒に礼拝をささげているという思いになりますから、という呼びかけとなりました。

この呼びかけは、座席のことですが、私たちの信仰への呼びかけとしても心に響きました。近づこうではありませんか、という信仰への呼びかけです。憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けを戴くために、大胆に恵の御座に近づこうではありませんか(ヘブライ四・一六)。そして先ほどの私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信を以て、大胆に神に近づくことが出来ます(エフェソ三・一二)。私たちは、近づき迫って来るキリストに結ばれて、今度は私たちが神に近づいていく。それが御前に感謝をささげ、礼拝をささげ、前向きに聖餐の恵に与るということです。信仰の姿勢が整ってくる。

 

皆さん、御前に近づくことができますか。こんな罪深い自分が神の栄光をたたえるなんて出来ないと思われるかもしれません。だからこそ、御前に近づき礼拝をささげ聖餐に与って、罪贖われた神の民とされていることを味わいます。

ある説教者は終わりにこう語っています。自分の生活のどんな変化にも負けることなく、ただ、神にのみ栄を帰することは、決して簡単なことではありません。まことに、アーメンと言って祈る他はない、と思います(竹森満佐一)。この礼拝を通して、私たちは、罪赦された神の民とされていることを心に刻み、神のために頌栄の祈りを祈る他はない。その中で、詩編記者が語ったように代々に、あなたの栄誉を語り伝えます、証しに生きる者とされているのです。

カテゴリー

過去の説教