詩編一四七・一~三
エフェソ三・一八~一九
パウロは、エフェソを初めとする諸教会と信徒=聖徒のために祈っています(エフェソ四・一六~)。その内容を五つ、取り上げます。
一つ目、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて(エフェソ三・一六)くださるように。二つ目、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ(エフェソ三・一七)くださるように。このことの実現のために、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として(エフェソ三・一七)くださるように。三つ目、また、あなた方が全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解(エフェソ三・一八)するように。四つ目、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり(エフェソ三・一九)、五つ目、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように(エフェソ三・一九)。
この箇所を読みながら気付かされたことは、キリストの愛が、教会と私たちの外からも包み込み、キリストの愛が下から教会と私たちを支え、更にはキリストの愛が内側から教会と私たちを満たしておられる。どちらを見てもキリストの愛ばかり。
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ。この御言葉からどのようなイメージをお持ちになられたでしょうか。例えば家具の寸法を測るようなイメージで、キリストの愛を外から眺めるような表現でしょうか。ある説教者は、キリストの愛の中から「広いなぁ」と見回しているのではないかと記しています。あるいはまた、先ほど讃美歌四三〇番一節で「主イエスの愛のその高さよ、我らの罪のその深さよ」と歌いましたが、主イエス・キリストの愛の高さはもちろんのこと、深さも、我らの罪の深さよりも深く、その下から支えている。その時にはキリストの愛の内側から覗き込むような仕方で「深いなぁ」と自分の立つ瀬を確認出来る。もし中から見回しているのだとすれば、キリストの愛に包まれていることになります。
詩編には、打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる (詩編一四七・三)とあります。傷を治すというより包む。特に心の傷は治しようのないことがあって、その様なときには、ただ包むしかない。自己治癒力で治るのを待つしかない。そのために包むのです。
キリストの愛を理解するのは、説明を聞いて頭で理解するのでは足りない。体ごと包まれて、分かるのです。そのようにキリストの愛が、教会と私たちを包んでくださる。
それからコリント書からキリストの愛の言葉を味わっていましょう(Ⅱコリント五・一四)。幾つかの翻訳をご紹介します。キリストの愛が私たちを駆り立てている(新共同訳)。キリストの愛が私たちに強く迫っている(口語訳)。キリストの愛、我らに迫れり(文語訳)。キリストの愛が私たちを捕らえて離さない(聖書教会共同訳)。キリストの愛が私たちを虜にしている(フランシスコ会訳)。キリストの愛が私たちをふんわりと包んでいるというより、挟み込むようにギュッと包んでいる。
それ故に、誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、餓えか、裸か、危険か、剣か(ローマ八・三四)。何も引き離すことは出来ないのだ、とパウロは語ります。何と心強いことでしょう。そして私たちはキリストの愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として下さる(エフェソ三・一七)。木に例えれば、キリストの愛は私たちの根っこをギュッと支える土、大地なのですね。
このように外からもキリストの愛にギュッと包まれ、内にもキリストが住まわれて、キリストとその愛から引き離されることはない。
キリストの使徒たち、また教会によって告げ知らされた福音の知識がいわば外から、それを聞く人々の心の内に入り、満ちるようになるためには、恐らく二つのことが必要です。一つは、神様の側からの聖霊の導き、もう一つは、私たちの側からは祈り求めることです。
パウロが例として挙げた、艱難か、苦しみか、迫害か、餓えか、裸か、危険か、剣か。私たちも各々の人生にあって、様々あるかも知れない。教会もまた様々あるかも知れない。でも大丈夫。確かなキリストの愛がある。これは福音です。その福音を教会は告げ知らせています。
この福音が私たちをギュッと包み込んでいることを自覚し、私たちの内側へと入り、支えられるためには、私たちの側に祈りが必要です。パウロはだから、ここでも諸教会のために祈っている。私たちは祈られている。パウロだけではない。キリストも祈っておられます。先ほどのローマ書、直前の文章から続いています。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです(ローマ八・三四)。現在形です。キリストの愛の執り成しの下で、何もキリストの愛から私たちを引き離すことは出来ないのです。
だから私たちも祈る。艱難があるときには尚更、私たちも祈る。心傷つく事があっても、キリストの愛の執り成しに思いを向ける中で必ず癒されます。そのようにして、教会も私たちもキリストの愛に外からも内からも守られます。そう確信します。