日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年9月19日 説教:森田恭一郎牧師

「習慣が作るファイナル・アプローチ」

イザヤ 四六・ 八~一三
ヘブライ一〇・一九~二五

礼拝をささげるということを、今日の聖書箇所から二つの表現を確認しましょう。一つは、聖所に入れる(ヘブライ一〇・一)、もう一つは、神に近づく(ヘブライ一〇・二二)です。

 

一つ目の、聖所に入れる。旧約時代の神殿には、聖なる神の臨在を象徴する場所として至聖所(ヘブライ書の聖所と同意)がありました。旧約の律法では、至聖所には、人間は罪の故に入れない。ただ大祭司だけが動物の血を携えて年に一回だけ入ることが出来た。それ程聖なる場所に私たちも、聖所には入れると確信しています(ヘブライ一〇・一九)とヘブライ書は言う。今、それが出来るのは、イエスの血によってです。主イエスが祭司の役、自らの血を携えて贖いの業を完全に成し遂げる大祭司になられた。そのお蔭で、私たちは聖所に入ることが出来る。このことを更にこう語っています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いて下さったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられる(ヘブライ一〇・二一)。至聖所の入り口の垂れ幕は、それまで聖なる神と罪人なる人間を隔てる垂れ幕であったが、それは取り除かれ、主イエスご自身が垂れ幕になって下さって、こちらですよと、神様への新しい生きた道を開く、垂れ幕になって下さった。

それで二つ目、神に近づこう。心は清められて、良心の咎めはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか(ヘブライ一〇・二一)。ヘブライ書はそう言えば、このことを繰り返し語っています。少し長いですが引用して思い起こしてみましょう。

この大祭司は、私たちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜に適った助けを戴くために、大胆に恵みの座に近づ こうではありませんか(ヘブライ四・一六)。

私たちは、この希望によって神に近づくのです(ヘブライ七・一九)。

それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがお出来になります(ヘブライ七・二五)。

従って、律法は年毎に絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることは出来ません(ヘブライ一〇・一)。     ここを読みますと、神に近づくのは、人間が律法を守ることによってではない、主イエスのお蔭なのだと繰り返し語ってきたことが解ります。

 

でも、礼拝を献げて神様に近づくには、心が清められ、良心の咎めがなくなり、体も清い水で洗われていることが必要なのか。そのようなこと言われても所詮、無理なこと、私は聖所には入ることも近づくことも出来ない、そんな気持ちにもなります。当時のヘブライ書の語りかける教会の人たち、自分の清さに自信のない人もいたでしょうし、教会と信仰者への迫害が迫る中、礼拝に参加しても事態は良くなるどころか、却って危険が身に迫る、と教会から離れていく人が少なからず生じた。ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったり(ヘブライ一〇・二五)ということが実際あって、集会そのものがなくなったりその可能性もあったに違いない。その限りにおいて、やはり離れていった人の良心の咎めはなくならなかったでしょう。

 

それにしても、集会を怠ることが習慣になってしまう。集会に行けない、そのもっともな理由はあると思います。申し訳ないけれど今日は礼拝に行けない。そういうことは、今日の感染症のことも含めて、幾らでもあると思います。それはやむを得ないことです。そのような時には「すみません、今日は出来ません」と神様に向かって申し開きすれば、それも有りだと思います。

でもそれが、習慣になってしまう。教会に集わないことも礼拝を献げないことも、習慣になり平気になってしまう。それはおかしい。

今日、説教集を三〇部用意しました。「コロナ禍にあって聴く神の言葉」という題の説教集。東京神学大学大阪後援会が、東神大応援のために準備した説教集です。是非、お帰りに受付にて、献金を以てお求め下さい。その最初の説教で、芳賀学長が今の状況での集会のあり方についても触れておられます。是非お読み戴きたいと願います。

そこでやはり、集会を中止したり、行けなくなる。これは非常時のことであってこれに慣れていいことではないと語っています。集会に行かない、礼拝を献げないことが、習慣化して身につくと、本当はこうしなければいけないのに、慌てた時に身についたことが表面に出る、いざという時に身についた行動をとってしまうということです。

 

それでヘブライ書が強調するのは、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか(ヘブライ一〇・二五)。

繰り返しますが、心が清められ良心の咎めもなくなるのは、主イエスの血によってです。洗礼を受けて、体も清い水で洗われたではないか。みんな神様の御業です。だから信頼しきって真心から神に近づこうではありませんかと呼びかける訳です。続けて、約束して下さったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようにしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ(ヘブライ一〇・二三~二四)と促します。  私たちは、自分を見れば弱さを抱えたままです。だから自分だけに思いを向けないで、むしろ信仰を告白し続け、少しでも互いに愛と善行に励んで信仰に生きることが、自分を支えます。それは自分一人で出来ません。教会に集い礼拝を献げる中で保たれるようになります。

 

今日の説教題を「習慣が作るファイナル・アプローチ」と致しました。これは航空用語では着陸態勢という意味ですが、日常の生活であれ、人生の最期を迎える時であれ。着陸態勢の時に、身についた日頃の習慣が出ます。

先の神に近づくとは別の用語ですが、かの日が近づいているとあります。この用語は、時は満ち、神の国は近づいた(マルコ一・一五)にも用いられている用語ですが、時間的にも空間的にも迫ってくる。航空機で言えば、滑走路が見えてきた。滑走路を前にした時には不思議と向こうの方から迫ってくる感じがします。着陸の時刻も迫ってくる。それに対応してこちらも着陸態勢を整えて近づいていく。神様の御前に近づいていく。このように向こう側から迫ってくる面と、こちら側から近づいていく面とがある。

時が迫ってくる、神様が迫ってくる。ここで日頃から礼拝を献げて神様を見つめ続けてきた習慣が生きる。滑走路が向こうから迫ってきているのですから、こちらも着陸態勢を整えて近づいていかねばなりません。それが出来なかったら、滑走路を見い出せないままです。神様を見い出せないままの、御手の受け止めてもらった実感なしに終わってしまう。

皆さん、人生の終わりを迎えようとしている時、主イエスの御名を思い起こせますか。主の祈りを祈れますか。ルターは臨終の時に最期に口にした言葉は、使徒信条だったとか…。それは、日頃から、使徒信条を唱え、主の祈りを祈り、御名を崇めていたからです。私たちは信仰的な意味でどういう迎え方をするのでしょう。

 

そのような良い習慣を身につけるためにすること、それが礼拝をささげ教会の集会に集って、そこで励まし合うことです。励まし合おうではありませんか(ヘブライ一〇・二五に二回)。人間は、一人だと罪深いままです。背くままです。相互牧会を心がけながら、少しずつで構わない、「また来週会いましょう」と声を掛け合いながら、良い習慣を日々身につけて行きます。愛と善行に励みます。人生の終わりだけではない、その時その時に、その都度その都度、ファイナル・アプローチの態勢をとる。失敗することもあります。そのような時に、赦し赦され合う関係を築くことが出来るようになっていきます。日頃からお互いに礼拝にて赦しの恵みを戴いている、その共同体の中に居るなら、赦し合うことも出来るようになります。

 

終わりに旧約聖書の約束の聖句を味わいたいと思います。背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。私は神、他にはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことを全て実行する。東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる。私に聞け、心のかたくなな者よ。恵みの業から遠く離れている者よ。私の恵みの業を、私は近く成し遂げる。もはや遠くはない。私は遅れることなく救いをもたらす。私はシオンに救いを、イスラエルに私の輝きを与えることにした(イザヤ四六・八~一三)。

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