日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2021年8月29日 説教:森田恭一郎牧師

「罪の赦しは、裁きを越える」

ヘブライ九・一五~二八

キリストは今から二千年前にこの世においでになりました。十字架で私たちの罪を贖い取るためです。今日のヘブライ書は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れて下さいました(ヘブライ九・二六)と記しています。今は神の右の座にお就きになり我らを執り成し、いずれまた、おいでになります。それを再び臨む再臨と言ったりもしますが、その時、何を為さるのかというと、使徒信条は「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給はん」と告白します。「審く、裁く」という言葉を耳にして、普通に考えますと安心していられる人はいないでしょう。今日の聖書はこう表現します。キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れて下さるのです(ヘブライ九・二八)。ここでは「裁く」ということに代えて「救いをもたらすために現れて下さる」と言っています。今日はこの御言葉を心に留めたい。

 

十日くらい前だったでしょうか、あるテレビ番組を見ました。戦争神経症を扱った番組です。戦地に行って銃撃を受ければ身体的な負傷兵となる訳ですが、戦地に行って人を殺す。敵の兵隊ではなく一般市民を虐殺して、その末に、神経症を発症する。戦地で見聞きしたこと、いや自分がしたことに耐えられない。良心の呵責に責められ、神経もやられて身体症状を発症する。全身のひどい痙攣が起こる。この事実を戦争中から隠していた。天皇の軍隊にそんなことがあるとなったら恥だと言う訳です。戦後も公にはされないで来た。同じ症状かどうかわかりませんが、アメリカのヴェトナム戦争の帰還兵も精神を患う人が続出したと聞きます。考えてみれば、むしろそのように心身を患うことの方が正常だとも言えるのかも知れません。戦地に行かされ残虐なことをして平気でいられるはずはない。症状として発症しなくても、その辛さを吐露することの出来ないまま、戦後を歩まなければならない苦しみまた大きいと言えます。

ある兵士は「こんなひどいことをして、もう自分は天国に行けない」。そう思ったそうです。その思いを一生涯背負い続ける事になります。

 

ヘブライ書にこうあります。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(ヘブライ九・二七)。やはり裁きがあるのでしょうか? これは、聖書が特に言っているということではなく、人が一般に思う事を受けて記した事柄のようです。当時のローマ社会だけではありません。先程の「天国に行けない」と思った兵士も同じです。また、あるお寺に行くと、極楽図絵と地獄図絵が描いてある。悪いことをしないようにと善行を勧めるための絵ですが、そのためにわざわざ死後の地獄図絵を用いる。本気で地獄を考える必要があるのか? 裁きがあるのか? 死んだ後のことは人間には分かりません。

そして、あると言えばある。何故、そう言えるのかと言いますと、イエスが十字架に掛かられ血を流されたからです。こうして、殆ど全てのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはあり得ないのです(ヘブライ九・二二)。イエスが十字架で血を流された出来事は何を表しているのか。それは血を流されたのはキリストであったということです。その血は両隣りで十字架につけられた強盗から流れた血と同じではない。救い主、キリストが十字架で流された血です。だからその意味する事は、我らの受けるべき罪の裁きを負って罪を贖って下さったということです。だから裁きはある。でも、キリストが私たちのために、私たちの代わりに、十字架で血を流してその裁きを負い、罪を贖って下さった以上、キリストが私たちにもたらして下さったのは、救いであり赦しであるのです。

赦しのことを言いますと、それでは、残虐な仕方で殺された人たちの腹の虫が収まらないではないか、そういう思いもあるに違いありません。が、私は信じます。十字架の御業を以てキリストが罪人を赦したもう故に、この人々が天国にて甦らされた時には、甦らされて身体だけ新しくなるのみならず、心も甦らされて、赦すことが出来る新しい者になる。そしてあの兵士たちも、心から詫びて、和解が出来るようになる。そう信じます。十字架でキリストは裁きを負い、赦しを実現されました。赦しは裁きを越え和解をもたらします。

 

それにしても、ゴルゴタの丘であの日十字架にかけられた三人、同じ十字架のようにも見える。イエスという男が、他の二人の強盗と同じように死んだだけのことではないか。しかしその内実は全く違う。キリストの死であった。何故そう言えるのか。

ヘブライ書は、旧約聖書の大祭司という概念を用いてイエスこそ、大祭司なのだと繰り返し語ります。イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです(ヘブライ二・一七)。全ての点で兄弟たちと同じであったが故に、逆に、イエスが神の御子である。その十字架の死が全ての人の裁きを負う罪の贖い死であったことが、見えない。

このことが分かるために役立ったのが旧約聖書の記述です。イエスを旧約聖書の視点から見た時に、イエスは旧約の信仰者たちが待ち望んでいた救い主であるとその内実が見えてきた。イエスが救い主キリストであることが分かった。それで、ヘブライ書は、繰り返し旧約聖書から引用し、旧約時代の契約や儀式を思い起こしながら、旧約が指し示していた、ただ一度完全に罪を贖い取って下さった救い主キリストの姿を明らかにして、まさにイエスが救い主であると証言します。

 

さて、ヘブライ書は今日の所で遺言のことを記します。実は、元の言葉は遺言とも訳せるし契約とも訳せる同じ用語です。契約をここでは遺言という角度で捉えて、やはりイエスの死がキリストの死であり恵みをもたらしていることを語ります。遺言は死んで初めて有効になります。同時に、死んでも遺言がなければ、亡くなった者の遺志は、確認も出来ませんし実現もしません。遺言を書き遺すことは大事です。思えば、遺言による財産はもらう者からすれば、自分の努力や功績に依らない恵みです。

遺言に記された内容は永遠の財産(ヘブライ二

・一五)。です。と言ってもお金ではありません。繰り返し聖書が記しますように、契約の内容は、神が我らの神となり、我らは神の民となるということです。これを先程の言い方で「裁きを越える赦し」とも言えます。この赦しのお蔭で私たちは他の人たちの前に立てるし、生ける神様の御顔を仰いで礼拝をささげることが出来る。これらのことは皆、永遠の財産になります。このキリストのご意思が遺言に記されて、十字架で流された血、その死を以て遺言が有効になります。

主イエスは最後の晩餐で宣言なさいました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である」(マタイ二六・二八)。まさに主イエスの遺言の言葉です。この主イエスの言葉に呼応するかのようにヘブライ書も、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(ヘブライ九・二二)とここでは律法を語っていますが、同じように主イエスを証する思いを込めて語っています。

 

終わりに、一つ考えたいことがあります。御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れて下さるのです(ヘブライ二・二八)とありますが、救いをもたらす、赦しを与えて下さるのは、キリストを待望している人たちに対してだけなのか。私は先の戦争の犠牲者たちの天国での様子をイメージしてみましたが、それは全ての人に及ぶ恵みだと信じます。それなら待望している人たち、すなわち礼拝をささげる私たちの特異性は何かと言いますと、この恵みを地上で経験することへと招かれている点にある。

赦し赦される関係は天国の現実である訳ですが、私たちは地上で既に、礼拝者として赦されていることを知っている。私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです(エフェソ一・七)とある通りです。待望している私たちは、天国に召されるまで待たなくても地上に生きている内から、赦されている者として赦し合う人間関係、赦し合う生活、執り成し合う生活を作り上げていきたい。私たちはお互い、相手を傷つけない立派な人間にはなりきれません。が、礼拝で赦しの恵みを戴いている者なのですから、赦し赦される、和解の関係にはなれるのではないでしょうか。

私たちは神の豊かな恵みを賜っているだけでなく、その恵みの中に生かされています。この赦しの恵み、その祝福を受けて、これを感謝し、ほめたたえて証しするように、礼拝から派遣されて日々の生活を生きるのです。

カテゴリー