日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年1月22日 説教:森田恭一郎牧師

「私は神を信じます」

出エジプト記三・一〇~一二
Ⅰペトロ  三・一五

今日の説教題を「私は神を信じます」としました。神様と言っても、もちろん主イエス・キリストにより啓示された三位一体の神様のことです。キリスト教の私たちにとってこの神様を信じるというのは当たり前のことですが、これを折に触れて信仰の告白を確認していくことは大切です。やはり時に信仰が揺らいだり、いざという時に力を発揮しないということはあり得るからです。

 

若い人も含めてここまでの人生を振り返って、これが良かったと言えることの一番に、何を挙げられるのでしょうか。それは神様を信じて歩んでいることだと言える。教会につながり、教会の皆さんと聖徒の交わりの中に自分も入れて戴いて、信仰を与えられたことだと言える。大切なことですね。そしていざという時、様々ある困難の時と言ったら良いでしょうか、「神様、イエス様」と呼ぶことが出来る、神様に向かって、イエス様に向かって叫ぶことが出来る。詩編に 「告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、私を呼ぶがよい。苦難の日、私はお前を救おう」(詩編五〇・一四~一五)。大切なことです。

あるいは、臨終の時を間近にしてどのような言葉を言うだろうか。よく思うのは、人生の終わりにお世話になった方に「有り難う」と感謝を伝えたい。謝らなければならないのに出来ていないので「ご免なさい」と謝罪を伝えたい。赦す思いをまだ伝えていないので「いいよ、もう気にしていないよ」と関係を回復したい等々あるでしょう。    これは人間関係ですが、神様に対してもちゃんと言いたいです。 「神様、これまで私の人生を導いて下さり有り難うございました、罪深い私をお赦し下さい」。そして相手は神様ですから「これからも宜しくお願いします」と。宗教改革者のルターは一説によると、臨終の時に使徒信条を唱えたとか。使徒信条に託して、信仰の思いを込めて三位一体の神を信ずと告白文を唱えた。聖霊の項目の最終行は、我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信ず。アーメン。こう告白して全てを委ねて眠りにつく。使徒信条の信仰告白の言葉が、いざという時にも生きた言葉になっていた訳ですね。

 

神様を信じます。英語で言うと「アイ ビリーヴ イン ゴッド」です。神様を信じますと言う時に、何故、インがつくのか、「ビリーヴ ゴッド」では駄目なのかずっと分からなかったのですが、「イン」がつくと、神様の中に委ねる、お任せするというニュアンスが出てくるのだそうです。ルターは自分を委ねることが出来た。これは臨終の時だけではありません。中山昇先生は、困難の中で、解決策を考えながらも「祈って神様にお委ねしましょう」とよく言われたそうです。希望の内にお委ねする。これが「イン ゴッド」なのですね。

ペトロは言いました。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明出来るように備えていなさい(Ⅰペトロ三・一五)。ここで思うのは、他の人に説明できるようにしておくためには、まず自分自身に対して確信を持って希望の説明、と言いますか、信仰の告白が出来ないといけません。当時は新約聖書もなく、使徒信条のような形となった信仰告白の文章がありませんでしたから、説明するという言い方にもなりますが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ一六・一六)と信仰の告白が出来る。困難な時も臨終の時も、委ねて言える。大切なことです。

 

神様を信じます。神様のおられるのを証明も出来ないのに、どうして信じられるのでしょうか。今日はモーセから学びたいと思います。モーセはイスラエルの民でありながら、イスラエルの民と共にいなかった。今のままでいいはずはない…という心のうずき、負い目がある。でもイスラエルの民とその労苦を共にするとしても、どうしていいのか分からない。悶々とするばかり。これが無視できないほどに気になり出す。内的促しと言いますか心が動かされると言いますか、そのような中である日、「モーセよ、モーセよ」(出エジプト記三・四)と神様の呼びかけを聴く。そして「行きなさい。私はあなたをファラオの下に遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから救い出すのだ」(出エジプト記三・一〇)と使命、召命を受けることになります。自分はと言えば「私は何ものでしょう」と全く自信はありません。でも共に負う労苦の質、あるいは方向性が見えてくる。

私たちはモーセのように直接、神様の御声を聴くことはないでしょうけれども、ある事柄を無視できないほどに気になり出す、内的促しが起こり、心を動かされる。そういうことはあり得ると思います。以前,祈祷会でのある方の証をご紹介しましたように「洗礼を受ける前から、礼拝のことが気になり始める。これは神様が教会へと招いておられる。これが選びですね」。そう仰った。教会へと背中を押しておられる教会への選びです。選びとは他の者に対して優れているから選ばれたという意味ではありません。神様からの招き、押し出しの事です。そして教会の礼拝に集い、聖書の言葉を聴く中で整えられ、信じる対象が見えてきて、神様を信じますと告白するように導かれる。

 

神様はモーセに言われました。 「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出した時、あなたたちはこの山で神に仕える」(出エジプト記三・一二)。導く=これは招きです。遣わす=これは背中を押して下さっている。ここでは、神が共にいるインマヌエルは、だから独りぼっちにならなくて済むというレベルの話ではなくて、私に従ってきなさいとお招きを受けて、背中を押されて遣わされることです。

そしてイスラエルの民と進む、モーセに示された最終地点は、この山で神に仕える=礼拝をささげる、礼拝者とされるということでした。

私たちにとっては、聖書や信仰告白の言葉に馴染みながら、自分に対する呼びかけ、招き、背中を押す御手を無視出来なくなったときには、私たちは神を信じ始めている。自分にとって神はおられて、私は神を信じますということになっている。そうなれば、公に信仰の告白をし、洗礼を受けることに何の障がいもありません。         福音書に登場するある父親は、病を抱えた子を持つ父親ですが、主イエスから 「私を信じる者にはその者に対して何でも出来る」と信仰へのお招きを受けました。そしてこう応えました。 「信じます。信仰のない私をお助け下さい」(マルコ九・二四)。神様を信じるというのは、神様を信じることです。主イエスを信じることです。自分を信じることではありません。自分を見たら揺れて当然です。だから自分の立派さを根拠に信じることではありません。主イエスの招きに思いを向ける。だから信仰のない私、その私が招かれて主イエスを信じます。

 

私は神様を信じます。これは単なる知識としての信仰告白の言葉を越えて、自分の人生において困難の中にある時も、臨終を迎えるような時でも、委ねて生きる、自分自身の確かな言葉となっている訳です。これから使徒信条の信仰告白の言葉を少しずつ味わって行きたいと願っています。

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