日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年12月24日 説教:森田恭一郎牧師

「神の御子、布にくるまれて飼い葉桶」

イザヤ七・一四
ルカ 二・八~一四

私たちはクリスマス・イヴの日を、そして今晩、聖夜礼拝の時を迎えています。神様の御子が天から降りて来られて地上に誕生された御子のご降誕をお祝いするクリスマス、おめでとうございます。                         とは申しましても、二〇二二年を振り返りますと、日常生活の困難が増したことを実感する人も多い一年となりました。コロナの感染症も収まらず多くの方が亡くなられています。また今年は、思いがけずウクライナでの戦争が始まり、ウクライナ兵にもロシア兵にも多くの犠牲者が生じました……。そのような暗闇の中、神様は本当にいらっしゃるのですか、おられるなら何故、こんな一年になるのですか、と問いたくもなります……。  私たちは、それでも神様はいらっしゃると信じなければなりません。ある新聞記事には「今年はクリスマスどころではあるまい」とあったのですが本当ですね。でも、むしろ、だからこそクリスマスをお祝いするのだ、と申し上げたい。テレビに放映されたウクライナのキーウの町の、いつもより半分くらい小ぶりな黄色と青色の電飾のクリスマス・ツリーの輝きは、暗闇でこそ祝うべきクリスマスであることを象徴していると思いました。                         何故祝うのでしょうか。クリスマスは夜の出来事だからです。病院である患者さんが語ってくれました。夜すっかり暗くなると、もう朝が来ないのではないかと思ってしまう、一人ベッドに寝ながら、そのまま落ちて行ってしまうような感じになって、この落ちていく自分を体ごと誰が支えてくれるのか。思わずベッドの柵を握りしめてしまう、と…。そのような夜に、人は救い主なる神様を待ち望んでいることに気付くのでしょう。    そのような夜にクリスマスの出来事は起こりました。これは体力の落ちた患者さんだけの話ではありません。たとえ体は元気でも心は一人きりになることは多い。誰が支えてくれるのか。羊飼いたちにクリスマスの出来事が告げ知らされたのも、彼らが夜通し羊の群れの番をしていた夜でした。                         この夜に、突然、主の栄光が輝き、天使が現れて言った。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」。 救い主がお生まれになったのだ。神様はいらっしゃるのだ。いやそもそも、本当に神様がおられたとしても、神様のお姿など見ることなど人間には出来やしないのではないか。  でもその私たちに、神様がいらっしゃる「しるし」が与えられている。続けて天使は語ります。 「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」。 今晩、心に留めたいのはこの「しるし」が与えられたということです。本当に神様はいらっしゃるのですか、の問いかけに「しるし」があるというのです。そうならばきっと、見るからに、この方こそ神様だ、と誰が見ても納得するような、神々しいしるしであろうか。けれどもそれは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、というしるしでした。神様なのに、神様らしくもない乳飲み子、神様なのにフカフカのお布団ではなくただの布にくるまっているだけ。神様なのに王宮のベッドではなく動物に使う飼い葉桶に寝ている。全然、神様らしくないしるし。でも天使は高らかに告げました。この方こそメシア、キリスト、救い主である。

 

クリスマス、それは、天にあって神様ご自身であられる方が地上に降って来られて、神様のお姿そのままではなく、わざわざマリアのお腹に宿り乳飲み子としてお生まれになった出来事です。この乳飲み子は、およそ三十年後、何も悪いことはしておられないのに十字架にかけられ、罪人として裁かれることになります。史実として記録に残る出来事です。それは乳飲み子以上に、全く神様らしくないお姿です。でもその意味合いは、私たちの裁かれるべき罪を代わりに負っての十字架となりました。天使が告げる救いは、上から救い上げるような仕方ではなく、先ほどの患者さんの言葉を借りれば、体ごと落ちていく自分を受けとめ支えるために、私たちよりも下に降って、下から受けとめ支えてくれる神の御手、神様ご自身のお姿を伴う救いです。

そしてクリスマス以後の私たちにとって、神様がいらっしゃる「しるし」は、二千年前に歴史に降りて来られた神の御子キリスト御自身です。

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