日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年3月29日 説教:森田恭一郎牧師

「真理を証しするために」

申命記 五・二〇
マタイ二六・五七~五九

今日は、十戒の第九の戒め、隣人に関して偽証してはならないの御言葉を味わいます。嘘をついてはならないということですが、十戒が語るのは、偽証、しかも隣人に関しての偽証です。つまり裁判での証言の話です。相手が実際には悪いことをしていないのに、この人が犯人だと嘘の証言をしてその人を罪に定めてしまう。冤罪です。第九の戒めは、その事実を語る真実さを求めています。

 

この戒めについて考えたいポイントを幾つか。一番目に嘘をつく、これは良くない。もっとも嘘も方便という事もあって、時には嘘をつくことが相手のためになるなら許されることもあるでしょう。二番目に嘘をつかなければ良いというだけでなく、事実を言わねばならない。親が子を叱る。これも相手の成長になるように事実を言うことが大事です。三番目に相手の事を悪く言い優越感を覚えることが動機になり自分のために言っているなら、たとえ相手が悪いことをしたのが事実であったとしても慎むべきでしょう。四番目に言わない嘘。自分の利益のために言わずに隠しておく。商品の広告に良い点だけ言って欠点を言わない。薬だったら副作用を告げない、これはフェアーではない。五番目は反対に事実を言わない真実。相手の立ち直りを求めて言わない。たとえそれが事実であっても指摘しない方が良いという事も。

 

今は受難節でもあり、二度の裁判から、偽証されてしまった事に対する主イエスの沈黙について思いを向けたい。主イエスの最高法院での裁判、マタイはその本質を語ります。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた(二六・五九)。事実の証言を求めるべき所なのに、不利な偽証をわざわざ求める、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めたなんて実に不真実です。この裁判は不真実です。十戒違反です。

大祭司がその後「何も答えないのか」と問いかけます(二六・六二)。主イエスは沈黙しておられる。主イエスは二つの裁判を受けました。一つはこのユダヤ人の最高法院の律法による裁判、そしてもう一つはローマ法による裁判。十字架刑の判決を下すことが出来たのはローマ総督ピラトです。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った(二七・一二~一四)。ここでも主イエスは黙っておられます。ピラトが不思議に思うのも当然です。普通なら、自分に対して不利な証言、しかも死刑にするための不真実な、事実に基づかない証言があれば、それは違う、間違っている。お前こそ嘘を言っているではないかと抗弁、反論し、むしろ偽証する人の不真実と誤りを指摘し、その人の罪を明らかにするはず。主イエスには幾らでも出来たはずです。であるのに黙ったままです。共観福音書における裁判での主イエスのお姿です。何故黙ったままなのか…。

もちろん私たちは知っています。冤罪を身に引き受けて、全ての罪を十字架で負って、私たちの罪を贖うためであった。それで敢えて反論しなかったのだと。その通りです。ゲツセマネの祈りで「私の願い通りではなく御心のままに」と祈られた。私の願いから言えば反論したいのだけれども、全ての人の罪を贖う、そのあなたの御心を私は担っていきます。その御心のままにと祈られた。それで黙っておられたのだ、と推測できます。

 

ただ今回私は、それで納得して終わってしまってはいけない思いになりました。この時の主イエスの真意を、ヨハネ福音書は記します。「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(ヨハネ一八・三七)。ここで気付くことは、相手の罪の事実を指摘するのと真理を証しするとは同じではないということです。

例えば、ある人が過ちを犯した。それを別の人が「あの人は罪を犯した」と証言する。それ自体は嘘をついたことにはならない。「あの人はあのようなことをしでかした」。それを別の人が聞く。それをまた伝えて行くと噂話になっていきます。いつしか、尾ひれがついて話は大袈裟になっていく。それが噂話。それを言う必要があるのか。元はと言えば事実のままで嘘は無かった。けれども、事実であっても、それが本当に相手の事を思ってのことだったのか、それを言うことで本当に相手を立ち直らせることになるのかどうか。そうならないで、優越感や興味本位で語るだけならそれは真実ではない、事実であっても不真実。そして私たちは誰もがこの不真実さを抱えています。

 

ある時、姦通の現場を取り押さえられた婦人が連れて来られました(ヨハネ八・一~)。周囲の人たちがこの婦人を死刑にすべきではないかと訴え責め立てる。これに対して主イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯した事のない者が、まず、この女に石を投げなさい」。既に人々の罪の事実を見抜いておられます。ですから主イエスは逆に、この婦人を連れて来た人たちの罪を指摘し責めることが出来たはずです。でもそれはしません。「あなたたちの中で罪を犯した事のない者が…」と言われただけです。これを聞いた人たちは、そう言えば…と思って一人ひとり立ち去ったのでした。主イエスが積極的になさったことは、一人主イエスの足元に居残った婦人に語ったことだけです。「あなたを罪に定めない」。

こう主イエスが言い得たのは、あなたの罪を私が十字架で負うから、という十字架への決意があったからです。十字架に基づく罪の赦しの宣言は主イエスにしか言えないものです。

この婦人はこれまでもきっと「あの女は」と色々言われてきたに違いありません。事実そうなのだから反論も出来ません。また、こうなってしまった言い訳は幾らでも思いついたでしょう。彼女は自分の運命をどれだけ嘆いてきたことか。でも、幾ら周囲からもっともなことを言われても、それで立ち直れて来た訳ではありませんでした。

 

主イエスはピラトを前に「真理に属する人は皆、私の声を聞く」(ヨハネ一八・三七)と仰いました。

罪の赦しの宣言を聴いた彼女はこれからどうなるでしょうか。恐らく、他の人を罪に定める思いや、またあの人のせいでこうなったのだと責任転嫁する思いも持たなくなるのではないか。皆さんは、そんなの無理だと思われるでしょうか。それともなるほどと思われるでしょうか。

彼女は、これから罪の赦しの宣言を心に留め、十字架と復活の後には、主イエスが私の罪を十字架で負って下さったのだ、と主イエスを証言するようになる。更に彼女は、私もあなたを罪に定めないという思いで出会う人々を見るようになる。相手がどれ程罪深い人間であったとしても、主イエスの言葉をその都度思い起こすからです。またみ言に留まる限り、周囲から何を言われても、それに振り回されずに自分であり続けることが出来る。主イエスは私の罪を負い、赦して下さった。これこそが紛れもない真理。主イエスの御前での自分であり続けることが出来る。

一方、婦人の罪を指摘した人たちは、年長者から始まって一人また一人と立ち去って行きます。彼らは罪を犯した自分について嘘はついてはいない。でも「あなたを罪に定めない」という彼らへの御声を聞き逃しました。立ち去ったからです。

 

良い羊飼いである主イエスは、こう仰いました。「私にはこの囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける」(ヨハネ一〇・一六~)。羊は羊飼いの声を聞き分けます。この囲いに入っていない羊、それは私たちの事、今は導かれて囲いの中に入れられた…と思ったりします。この囲いに入っていない他の羊、私たちが思う以上にその範囲は広いのではないでしょうか。例えば、ピラトも、大祭司や長老たちも、この婦人も、立ち去ってしまった人たちも、主イエスにしてみれば、みんな最初は囲いに入っていない他の羊です。ただこの婦人だけが、この御声を聞き分けることの出来る場に居残ることが出来たのですね。

主イエスを三度否んだペトロも、逃げ去った弟子たちも、後になって聞き分けることが出来た。そして私たちも、これからの人生、その時々において、主イエスの声を聞くべき声として聞き分け、相手の罪の事実を指摘するよりも、主イエスの御声に留まりその真理を証しする者へとされていく。

 

十戒は主イエスを証しします。隣人について偽証してはならない。相手に言うべきことを言う。あなたの罪は赦された。相手に不利になることは言わず、自分に不利になっても相手のためにならないことは言わないで、神の栄光をたたええる。この主イエスのお姿を証ししています。真理はあなた方を自由にする(ヨハネ八・三二)。私たちは主イエスから真理を聞き続け、私たちが出会う他の人々の罪を指摘する優越感から自由になって、真理に想いを向け証しする者へと招かれています。

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