日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年4月11日 説教:森田恭一郎牧師

「新しい命に生きる」

イザヤ三五・五~六
マルコ 一・一~八

お早うございます。今日から教会学校ではマルコによる福音書を学んでいきます。今日は教案誌カリキュラムに従って、マルコ福音書の最初の所です。
神の子イエス・キリストの福音の初め(マルコ一・
一)

イエスさまが、神様ご自身のであられる神の子で、私たちのキリスト=救い主となって下さった。それが福音である。そしてその「初め」と
記しています。初めと言えるのは、終わり、やり遂げた完成があることを見通しているから初めと言える訳です。
(はらぺこあおむしの絵本を開いて)

葉っぱの上に水玉が乗っかっているかな。「フッ」と水玉を払ってしまいましょうか。いえいえ、これは水玉ではなく卵です。これを「ポイ」ってなんていけません。ここに「命の初め」があるからです。
なぜ、そう言えるのですか? この後、卵がかえって、青虫になるからです。それからこの子どもの青虫は餌をたくさん食べて、大きくなりました。あの卵から、こんな大きな青虫になりました。
さて、神の子イエス・キリストの福音の初めです。それは、イエスさまに洗礼を授けた洗礼者ヨハネが、荒野に現れたことです。
旧約聖書の書かれてあったように、その通り現れました。「見よ、私はあなた(=キリスト)
より先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ』」。洗礼者ヨハネは荒れ野に現われて、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を叫ぶようにして宣べ伝えた訳です。
場所は荒れ野です。全く賑やかさも楽しさもない所です。もしかすると、私たちの気持ちも荒れ野になっているかもしれません。荒れ野のように、寂しい気持ちの私たち、荒れ野のように良い実を結べない私たち、そして荒れ野にいる野獣のように争って喧嘩ばかりしている私たち……。
その私たちの所に、キリストがおいでになる。心をキリストに向けよう。悔い改めて洗礼を受けよう。そうヨハネは呼ばわります。
悔い改めるというのは、自分を振り返って反省することではありません。神の子イエス・キリストの方に心を高く向けることです。
そして洗礼を受けます。ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けました。川の水の中に身を沈めます。そして水から上がります。キリストの方に向いていなかった古い自分が死んで、キリストに向かい、従っていく新しい自分に甦らせてもらいます。
さて、あの青虫君、ご飯を食べて元気に動き回る、こんなに大きな青虫になりました。でも、その後、まるで枯葉のようになって動かない、さなぎになりました。でもこの後は?
そうです。蝶々です。こんなにきれいな蝶々に。まるで甦ったようです。初めの卵が、青虫になって、死んださなぎのようになって、こんなきれいな蝶々になりました。福音の初めも、終わりには、例えていえば蝶のようになるのでしょうね。
ところで、終わりに質問があります。この青虫君、自分が最後にはこんな綺麗な蝶になる、自分で知っていたでしょうか?
知らなかったと思います。皆さんも、言ってみれば、どんな大人になって、終わりにはどんな綺麗な蝶になるのか、知っていますか?
先生も知りません。知らないのですが、とにかく、キリストが私たちを甦らせて下さったら、イエス・キリストの栄光あるお体と同じ形に変えて下さる(フィリピ三・二一)ことだけ信じています。それは、キリストが、私たちに約束して下さった新しい命です。

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