日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年10月16日 説教:森田恭一郎牧師

「我信ず、聖徒の交わり」

レビ記 一九・二
Ⅰコリント一・一~三

今月第五週の主日に教会研修会を予定しています。主題は「相互牧会」です。研修会に向けて今日は大枠として「聖徒の交わり」を学び、次週絞って「相互牧会」について学びます。その特色を端的に言いますと、聖徒の交わりは、キリストの恵み、その信仰を分かち合う交わりです。相互牧会は恵みを分かち合うための教会の私たちの営みであるということです。これが今週と来週の説教の主題となります。

研修会では講師の飯島喜世惠牧師が「わたしたちの郊外伝道と相互牧会」と題して、ご講演下さいます。飯島牧師は現在、横浜市にありますセンター北教会の主任担任教師であり、同時に品川区の五反田教会の兼務担任教師であられます。今日は予備資料をお手元に配布致しました。福音主義教会連合機関誌二〇一九年七月号に飯島牧師が寄稿下さった文章です。私はここで「相互牧会」という言葉を知りました。両教会が共同で郊外伝道の幻を描きながら、そこで経験された相互牧会に至った経緯を記しておられます。この経験を基にしながら、この度、相互牧会のお話しを伺います。

 

この度、相互牧会を主題にしましたのは、私たちの教会が、「共にみ業に仕え支え合う教会」、これをスローガンに歩み始めた訳ですが、その一環として改めて相互牧会が視野に入ってきたからです。特に高齢の方々の牧会を教会みんなで如何に担い合っていくかが課題になっています。もとより当教会は以前より老人ホームを造ろうという幻がありました。コロナの感染症拡大以前には、老人ホーム「シャローム」の俣木聖子氏をお招きしてご講演を伺いました。また、社会福祉法人泉カナン会を設立し(今は聖愛保育園だけですが)、老人福祉の展開への関心も持ち合わせておりました。

もちろん高齢者だけではありません。幼子、若者から高齢者に至るまで、みんなが支え合い、教会と繋がっていることを思える、いわば、お互い忘れられてしまうことなく居場所がある教会を建てていこうと願っています。もっとも、私たちの人間関係は教会の人間関係ですから、大きく言えば聖徒の交わりです。キリストとの交わりがあり、その恵みを分かち合う私たち同士の交わりです。

従来、牧会と言いますと牧師一人が教会員のお世話をするための業と受けとめられる事が多かったと思いますが、牧会はみんなで担い合うのだと自覚し直して、「共にみ業に仕え支え合う教会」を建てていこう、この願いを持っている訳です。

 

さて、今日は聖徒の交わりです。先ほど、聖徒の交わりは、キリストの恵み、その信仰を分かち合う交わりであると申し上げました。私たち同士の交わりに先んじて、キリストとの交わりがあります。ヨハネの手紙は、「私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ一・三)と語ります。聖徒の交わり、日本語では聖徒、聖なる人と訳されていますが、それはまず聖なる父なる神様、御子キリストとの交わりと理解出来ます。あるいは聖餐に代表される聖なる物、聖なる事柄に与ることと理解出来ます。私たちは、自分の力で聖なる人間になれるわけではありません。聖なるキリストとの交わりに入れられて初めて聖なる者とされます。

コリント書は受動形で、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々(Ⅰコリント一・二)と記します。しかもキリスト・イエスによって、とはっきりと記します。キリストが私たちの汚れも罪も十字架で贖い取って下さった。そのお蔭で聖なる者とされる。使徒信条では「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と続きます。公同教会とはキリストが頭であられるその体なる教会です。その教会に連なって私たちは聖なる者とされる、と言えます。教会でキリストの福音を聞く。福音を信じて洗礼を受け聖餐に与ることなしに、私たちは聖なる者ではあり得ません。

また「聖徒の交わり」は「罪の赦し」に続きます。礼拝においてキリストから罪の赦しの宣言を戴いた者同士の交わりへと展開します。

 

キリストがみ言と聖礼典を用いて私たちと交わって下さって、その愛と恵みを注いで下さる。それで聖徒とされるキリストとの交わりですが、更に、そういう私たち同士の交わりもある訳です。それは、罪赦された者同士、キリストに愛された者同士の交わりです。

レビ記には、あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である(レビ記一九・二)、とあります。能動形です。修行などを積んで自分で聖なる者になるということでしょうか。そのようなことは無理だ、と私たちは思います。

レビ記を続けて読んでいきますと「父と母を敬いなさい」(レビ記一九・三)。十戒のような掟が続きます。聖なる者となるとは具体的にこれらの掟を守ることだ、と言っているようです。

そして隣人愛の掟が記してあります。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(レビ記一九・一八)。ここで注意したいことがあります。自分自身を愛するのは誰かということです。自分が自分自身を愛するようにということなのか、神がこの私自身を愛するようにということなのか。私自身を愛して下さるのは神である、というのが正解でありましょう。口語訳聖書では、あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない、となっていました。神に愛されている自分のように、という意味です。私自身が愛されているなら、そのようにあなたも愛されているのですよ、と神様を経由して相手を見出し、キリストの愛が伝わるようにする営みが隣人愛です。相手が神に愛されていることを知らなくても、こちら側はそれを信じて、相手の人に関わります。ただ自分が相手を愛しているというなら人間愛でしょう。因みに、相手も信仰者なら兄弟愛、と私は区別しています。

 

相互牧会の基本は教会における兄弟愛が基本ですが、教会のその営みが、対外活動として地域に開かれて信仰者でない方たちにも及ぶなら、隣人愛であると考えることが出来るでしょう。

教会での当面の課題は兄弟愛としての相互牧会です。聖徒の交わりです。私たちはキリストの愛と恵みを戴いて、それを信じている聖徒なのですから、週日の生活においても聖徒として生活します。私たち同士が出会ったとき、世間話ではなくキリストの愛と恵みを分かち合いたい。何か課題にぶつかっていることが分かったら、地にも御心が成るようにと祈り合いたい。親しい者を亡くされた方であったら、天に希望を繋ぐ確かさを以て慰め合いたい。

もし信仰をお持ちでない方には、私たちの側は、キリストはその方にも愛を注いでおられることを信じて、相手のお気持ちに耳を傾ける。その聞き方は、こちらが信じているのと信じていないのとでは、何かが異なるし、相手の方にも何かが伝わるものです。当教会が癌患者さんのカフェを対外的に開催しているのも、そこに意味があります。

 

今回の教会研修会、まだこれからです。が、講師の飯島先生をお招きするだけではありません。実は、長老もお一方、おいでになります。私たちがお招きするのではなく、五反田教会が遣わして下さいます。また、こちらの様子を、配信でお届けすることになりました。センター北教会と五反田教会の皆さんが、当日、恵みを共有して下さいます。いずれも私たちが思い及ばなかった試みです。これは聖徒の交わりを信じるから可能な試みです。聖徒の交わりは、信仰者個人同士に留まらず、教会同士の交わりであると教えられた思いが致します。課題にぶつかるのは教会も同じで、今回は相互牧会の課題です。共に聖徒としての恵みを共有し、相互牧会への可能性を分かち合い、共に主の御名をたたえます。感謝しつつ、楽しみにして当日を迎えたいと思います。

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