日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年6月28日 説教:森田恭一郎牧師

「憐れみはゆるし」

Ⅰテモテ一・一二~一七

清教学園チャプレン 川俣茂

54年版讃美歌の249番1節に次のようにあります。「われつみびとの/かしらなれども、/主はわがために/生命をすてて、/つきぬいのちを/あたえたまえり」。

今日の聖書の箇所はまさにパウロの個人的な証しともいえる箇所です。直前の11節に「今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています」とあるように、パウロは自分の「使徒としての権威」をはっきりと記しています。ほかでもない神から福音をゆだねられている。パウロの位置を、立場を明快に示している言葉です。

そのパウロは、『使徒言行録』9章に記されているような、主によって赦されたその過去を自ら思い起こすことによって、あるお方への感謝をも思い起こさずにはいられませんでした。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」。いまや主イエス・キリストに対してパウロ自身、限りない負い目を感じている。と同時に、感謝もしている。それは、恵みと力とによって、またキリストによって「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者」から、熱心で、献身的な伝道者へと変えられたことによります。パウロは神の恵みと力とを与えられたことによって、自分自身が神に召されていることを知り、神によって命じられたその業のためにふさわしい者となるべく、眞にふさわしい伝道者となるべく強められることになったのです。

パウロは回心の出来事の後、「キリストの使徒」・「福音をゆだねられた者」という、いわば公的な肩書を与えられただけではなく、奇跡・癒しをも為す力も与えられました。しかし、与えられたものはそれだけではなかった。何よりも信仰が与えられていました。それは、主イエス・キリストが「わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったから」為しえたことでありました。パウロが「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者」であったにもかかわらず、御子キリストは、そのパウロを完全に赦し、神によって命じられたその業、その務めに当たるべく任じてくださった。ここに迫害者をも赦してくださるという「赦し」がある。パウロは「罪赦された者」、その「赦し」を経験した者であったのです。ある事柄を語る時、経験した者にしかわからない、経験した者しか語れないということがあります。パウロは罪の赦しを経験している。迫害者であった過去を赦されている。そのことはパウロの生涯、また伝道への姿勢を考えるうえで重要な出来事だと思います。

パウロが受けたものは「赦し」だけではありませんでした。パウロが「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者」であったのは、「信じていないとき知らずに行ったこと」であったゆえ、『使徒言行録』9章のあの回心の時に神から「憐れみ」をも受けた。この「憐れみ」は他の誰かが経験したものを傍で見ていて知っていたというのではない。やはり彼自身、パウロ自身が身を以て経験したものでありました。しかもこの「憐れみ」は、「キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられ」るようになった「わたしたちの主の恵み」によるものでありました。パウロはそのことをよくわかっていた。自らの体験として痛いほどよくわかっていた。パウロが「憐れみ」をいかに重要視していたか、大切に思っていたか。パウロが記したとされる手紙のうち、最初の挨拶に「父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」というように、恵み・平和と並んで「憐れみ」と記されているのはこのテモテへの手紙一と二だけです。そしてこの箇所でそれをなお強調している。ですから、パウロは「自分が神の御前にあって価値のないものである」ということ、また「信じていないとき知らずに行った」、神に対する罪を何とかしたいとそれほどまでに願っていた。それゆえ、憐れみに満ちたキリスト・イエスによって示された、神の憐れみと恵みというものを人々に伝えようと献身し、またそのことに心を砕いてきたのです。

大いなる罪人であったパウロが憐れみを見出すことができたのは、いや憐れみを見出すことが許されたのは、「信じていないとき知らずに」行っていたからです。パウロの最大の罪は、「主イエスがキリストである」ということを無視してしまった、そしてその主イエス・キリストの弟子たちを脅迫し、殺そうとしていたことでした。その当時のパウロは、『使徒言行録』22章と26章に記されているように、「自分は神に仕えている」と思い込んでいた。ですから、「ナザレの人イエスの名に大いに反対すべき」ということが、神の御旨にかなっていると信じていた。それこそがパウロの罪でした。神の御旨を完全に取り違えてしまっていた。しかし、今やその罪がすべて赦され、その神のため、迫害していた主キリスト・イエスのための務めに邁進している。御名を汚し、教会を迫害し、教会に集う者たちを鞭打った彼に、主はご自身を現し、召し、信頼し、その信頼にこたえる力をお与えになったのです。それによってパウロは、神から真理を受けたがために、罪を犯すことがもはやできなくなった、いや罪を犯すことがなくなったのです。パウロ自身、自分の心、良心を良い意味でかたくなにしつづけることによって、罪を犯すことがなくなったし、罪を犯さなかったのです。パウロは憐れみを経験し、恵みを与えられたことによって、常に「清い良心」を持とうと努めていたのではないでしょうか。

確かにパウロにとって、回心の出来事、そして主がご自身を現し、召し、その信頼にこたえる力をお与えになった出来事は理解しつくすことのできない事柄でありました。しかし、ただ一点、「憐れみを受けた」とだけ説明されています。つまり、自分がそれに値しないほどの大いなる憐れみが自分に臨んだということになるのです。

14節、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました」。パウロにとって主の恵みは、自分の証しを確かなものにするのに十分であるばかりではなく、十分すぎるものでした。はるかに満ちあふれるものであったのです。その満ちあふれる主の恵みはパウロに重大な告白をもたらします。15節にある、「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」という告白です。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。この言葉はルカによる福音書19章10節の「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という主の言葉を思い起こさせられます。確かに、ザアカイに語ったこの言葉ほど、パウロの生涯に起こった出来事を簡単明瞭に総括する言葉はありません。なぜなら、パウロは当然神の怒りに陥るべき、失われたものの一人であり、そのかしらであったからです。

この「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は、「一文でまとめられた福音」と言われてきました。これこそ、私たちが持っているキリスト教信仰の中心的なもの、中心的な真実です。真理です。これがなければキリスト教はキリスト教でなくなってしまうものです。その主イエスは地上の王となるためにこの世にやって来られたのではない。「罪人を救うために世に来られた」のです。「罪人を救うために」。パウロだけではありません。私を、そしてあなたを救うために来てくださった。パウロを、私を、そしてあなたを救うために主は率先して十字架にかかってくださった。私たちはそのことを、十字架の出来事を自らのこととして受け止めているでしょうか。謙虚に、そして感謝を以てあの主が血を流されたという出来事を受け止めているでしょうか。

パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ということを、謙虚に、そして心からの感謝を込めて受け止めています。そして自分の個人的な体験を、自らに与えられた憐れみと恵みとを、神による贖いの力が示された例として記しています。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。パウロは自分自身で評価できない過去から自分を救い出すために、神の恵みというものが本当に必要であったという意識を持っていた。そしてその意識を決して失うことはなかった。自分がいったい何をしてしまったのか、誰に対して罪を犯してしまったのか、その永続的な罪の結果は何であったのか。いずれも無知のゆえとはいえ、「信じていないとき知らずに行ったこと」とはいえ、大変な罪ではありましたが、それらを意識しつつ、パウロは、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と、自ら「罪人のかしらである」と告白したのです。

パウロの手紙の中で、今を生きる私たちにとっても最も教えられる部分の一つは、パウロ自身の霊的な経験を記している箇所ではないかと思います。パウロは自分が取るに足りないものであることを、そして自分の罪を心から、謙虚に告白した後に、「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しにな」ったからだと記しています。どんな罪を犯した人も、決して絶望することはないと記している。それはキリストの忍耐があるからです。キリストの寛容があるからです。最後の最後まで罪人を悔い改めに、そして救いへと導く忍耐を、寛容をキリスト・イエスが持っていてくださるからなのです。

私たちがパウロの経験を見るとき、パウロが本当に「罪人のかしら」、「罪人の中で最たる者」であったとしても、もし、本当に心から救われたいと願うなら、救ってくださる神の愛を疑う必要はなくなります。なぜなら、パウロが「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本」となったからです。イエス・キリストがその寛容・忍耐の極みをパウロに示された時、パウロはその後に続くあらゆる「憐れみ」の原型となり、どのような人間が将来救われるかということが全世界に示された。罪人を救うために来られた方の憐れみが届かない人はいないということです。私たちには既に手本が示されている。証拠が示されている。「これでも信じないのか」というような証拠が示されているのです。これによって私たちの信仰が確かなものへ、揺らぐことのないものへと変えられていくのではないでしょうか。

この揺らぐことのない信仰が深められ、ますます確かなものとなったとき、神の憐れみ・神の恵み・神の愛を思いつつある時、私たちもそうでありますが、讃美が沸き起こる。ここでは頌栄という形でパウロは表現しています。「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン」。頌栄は新約聖書にも多く出てまいりますが、この17節の頌栄はどの頌栄よりも心からの頌栄でしょう。パウロは、やがて悔い改めて神の民となる人々を励ますために、自分自身の罪を赦してくださった神の憐れみ・恵みに完全に心奪われています。その神は眞にして唯一のお方であり、やがて朽ちるべき、衰えるべき人間が捧げることのできる尊敬と栄光、讃美と礼拝とを世々限りなく受けるに値するお方である。それゆえパウロは永遠に神である、唯一なるお方に対する思いを噴出させている。16節まで記してきたパウロは、神の憐れみに感謝する思いでいっぱいとなり、頌栄を記さずにはいられなくなったのでしょう。

本来、神の愛や信頼を受けることなどできるはずのない罪人が、イエス・キリストの到来によって、罪が赦されて救いに与る、その恵みによってこそ、パウロは今、神の御用を果たすことができる。神が自分を信頼してくださったというのは、その恵みを与えてくださったということになります。自分が信頼されるに足るものだからではなく、神の側の理由、つまり力やふさわしさはまったくないのに、主イエス・キリストの恵みによって、神が信頼してくださった。ですから、パウロは力強く記しているのです。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。ここに手本がいるではないか。あれだけのことをやらかしてしまった私が今、恵みによってこうして用いられているではないか、と。

ところで、パウロは確かに神から「赦し」を与えられました。しかし、その赦しははたして「罪の赦し」だけだったのでしょうか。私はそれだけではないと思います。パウロが与えられた「赦し」はもう一つあったのではないかと。パウロはあの回心の時、「不信仰の赦し」をも与えられたのではないかと思うのです。確かにパウロが犯してきた「罪」と「不信仰」はリンクしているものです。しかし、パウロは当時「不信仰」だとは思っていなかった。熱心な信仰を持っていると思っていた。ですから、「不信仰の赦し」は「誤った、間違った信仰の赦し」と言い換えることができるでしょう。神のもとに本当に立ちかえった時、悔い改めた時、その人の「不信仰」「誤った、間違った信仰」が赦されるのです。パウロはダマスコの回心で、自分がしてきたことを省みた時、自分なんか絶対に赦されるはずはない、主イエスと出会っても主が、この大迫害者なんか赦してくれるはずもないと思っていたでありましょう。しかし、パウロは憐れみを土台として、憐れみを支えとして主の業を信じた。そこで新しい信仰、つまり正しい信仰が与えられ、「誤った、間違った信仰」は赦されることになったのです。

パウロにはあの回心の時、「主の恵みが・・・あふれるほど与えられました」。それはパウロの以前の「不信仰」・「誤った信仰」とはまったく対照的な「信仰」と、以前の迫害・主の教会への弾圧とは対照的な「愛」を伴うものでした。誤った形、間違った形ではありましたが「信仰」はあった。しかし、パウロに決定的に欠けていたものは「愛」でした。「愛」のないパウロから「愛」にあふれたパウロへ。その転換には「憐れみ」、そして「恵み」が伴っていた。その喜び、大きな出来事を人々に伝えずにはいられなかった。主イエスの十字架が自分たちのための出来事であるということを、身を以て体験したからには、そのことを人々に伝えずにはいられなかったのです。

神は私たち一人一人にもパウロのように何らかの形で「憐れみ」・「恵み」、そして「赦し」を与えて下さっています。パウロのように衝撃的な形であるかもしれませんし、気づかないような形で与えて下さっているかもしれません。しかし、私たちは神にとらえられている。私たちは罪人なのに、です。そのパウロを手本として、私たちも伝道の業に邁進していきたいと思います。

讃美歌249番の4節を読んで終わりたいと思います。「思えばかかる/つみびとわれを/さがしもとめて/すくいたまいし/主のみめぐみは/かぎりなきかな」。

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