日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年8月2日 説教:森田恭一郎牧師

「御言葉を行う人に」

ミカ 六・六~八
ヤコブ一・二二~二七

御言葉を行う人になりなさい。ヤコブ書の主張を端的に表した聖句の内の一つです。御言葉を行うとはどういうことか。そしてどうしたらこうなれるのか。これらの点が今日の主題です。

御言葉を行う人になりなさい。これは、善い業を行いなさい、と同じでしょうか。同じではありません。御言葉を行うのです。求められている行いとは何でしょうか。旧約聖書ミカ書にこうありました。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである(ミカ六・八)。ヤコブは具体例を記しています。みなしごや、やもめが困っている時に世話をし(一・二七)。これも、旧約聖書に幾つも言及があります。

例えば申命記から拾い読みしてみますと、町の中にいる寄留者、孤児(=みなしご)や寡婦(=やもめ)がそれを食べて満ち足りることが出来るようにしなさい。そうすれば、あなたの行う全ての業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう(一四・二九)。寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない(二四・一七)。あるいは落穂拾いの光景を思い浮かべてみて下さい。畑で穀物を刈り入れる時、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主が、あなたを祝福される(二四・一九)。

律法の御言葉が、ただ冷たい掟ではなく、何と慈しみと愛に溢れていることかと気付かされますね。もう一ヶ所、あなたたちの神、主は、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる(一〇・一八)。神様ご自身が慈しみと愛のお方であられます。ですからヤコブ書も、みなしごや、やもめが困っている時に世話をし(一・二七)と語ります。ここでの「世話をする」は、主が恵みを以て顧みる、訪れて下さる(ルカ一・六八他)と用いられる言葉です。孤児や寡婦に対する世話は、主が恵みを以て顧み訪れて下さることを映し出す世話である訳です。

このように世話をするのは、主の御心に適うことです。私たちが同じように行う時、そこに、主なる神様の御心や御業が映し出されます。すなわち、主なる神様が恵みを以てあなたを顧み、訪れ、慈しみ愛しておられます、と神の愛と救いが伝わります。この点が、ヒューマニズムによる人間愛と、聖書に基づく隣人愛や兄弟愛との違いだと言えるでしょう。単なる善い業ではありません。

 

さて、御言葉を聞くだけで行わないままで終わるとしたら、とヤコブ書は私たちの痛い所を突いてきます。その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます(一・二三~二四)。鏡の前から立ち去って自分の姿をすぐ忘れるような、御言葉を忘れる人だと言います。当時の鏡は、いわば、使い古した傷だらけのステンレスのお盆みたいなもので、覗き込んでもちゃんと顔がよく見えない。だから立ち去るとすぐ忘れてしまうということになるのでしょう。今の鏡は違います。ちゃんと映し出してよく見えます。

皆さんは鏡に映る自分の顔や姿を見て、どうお感じになりますか。鏡よ、鏡よ、鏡さん。世界中で最も美しい人は誰? それはあなたです。そう思ってうっとり出来る人は幸いです。

聞いた御言葉という鏡を見たら、私たちはどのような姿をそこに見出すのでしょうか? その美しさにうっとりするのでしょうか、それとも罪深い自分を見せつけられて落ち込むのでしょうか。

 

ヤコブは言いました。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります(一・二五)。御言葉を忘れることなく、そして御言葉を行っている自分の姿が、この鏡に映し出されている。幸せになりますとヤコブは言うのですから、この御言葉の鏡を前にして、うっとりして良いのではないでしょうか。幸せになりますというのは未来形ですので、鏡に映る御言葉を行っている姿は、夢・幻の姿、希望の姿です。

ある水泳選手が白血病で闘病中、また元気に泳いでいる自分の姿を希望の内にいつも思い描いていたそうです。それで見事、復帰に向かっていますね。私たちも、自分の希望の姿を見出していたい。希望の姿を御言葉の鏡に見出していきます。

 

二七節の御言葉をもう一度味わいましょう。みなしごや、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。世の汚れに染まる。ここでは孤児(みなしご)や寡婦(やもめ)が困っていても世話なんかしなくてもいいよ、と考えてしまう当時の社会常識を指しています。現代は現代なりの常識によって、私たちも世の汚れに染まっていることはきっと沢山あるに違いない。ヤコブはだから、そうならないように自分を守れと私たちに勧めます。それが自分を欺かないことだと強調します(二二、二六節)。偽らずに欺かないために、御言葉の鏡に映る、御言葉を行う自分の姿、希望を見続けることです。

 

今日は聖餐式です。主はパンを手に取りながら「これは、あなた方のための私の体」と仰いました。また杯を同じようにして「新しい契約」と仰いました。主イエスが私たちの神となり、私たちがその神の民となるという契約です。目の前にいた弟子たちは、その直後に皆、主イエスを見捨てて逃げ去る、世の汚れに染まり切った弟子たちでしかありませんでした。でも主イエスは、パンを取り杯を手にしながら、ご自身の目前の十字架を鏡にして何を見出しておられたか? 主イエスを神とし、主イエスの民となって生きて行く弟子たちのこれからの姿であったに違いありません。

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