日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年4月17日 説教:森田恭一郎牧師

「弱さと過ち、あからさま」

イザヤ書五三・一~一二
ヨハネ 一三・一~五

主イエスは弟子たちの足をお洗いになりました昨年は一節のこの上なく愛し抜かれたの聖句を味わいました。今晩は二節です。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。弟子である者が、その主人を裏切る。通常では考えがたいことをユダはしてしまいます。

 

時に人は、周囲から見れば到底理解しがたい事を考えたり行なったりします。本人なら正当化する理屈があるのかも知れません。いや本人だって冷静に考えれば何故自分がそんなことをしでかしてしまうのか、分からないのかもしれない。それを、ヨハネ福音書は、既に悪魔は裏切る考えを抱かせていた、と悪魔の仕業であるかのように描いています。なるほど、日本語でも「魔がさす」というような言い方をします。でも、悪魔のせいにすれば解決する問題ではない。やはり本人のせい、本人の弱さのせいです。過ちへと誘われた時に、それは違うと、言い切れない弱さを抱えている。

しかし、それはお前のせいだ、と言い放って済む問題ではありません。責任問われる。もし自分がユダの立場に置かれても自分はユダと同じ事はしないと言い切れるように強くなれるだろうか。

 

相手の話を傾聴する、カウンセラーの学びの中で言われることの一つですが、自分が安全な所に立ったまま相手の立場を理解することは出来ない例えば、相手が犯罪者であった場合、相手のことを怖いなと思ったら、身構えて既に相手の人に寄り添ってはいない。聴く姿勢は出来ていない。また、この人はこんな犯罪を犯すべきではなかった自分だったらそんなことしない、と思うなら、既に相手との間に隔てを設けている……。ですからもし自分が相手と全く同じ境遇、育ちそして犯罪を犯す状況に置かれたら、自分も同じように考え行なってしまうだろうな、と相手と同じ立場に立ち理解を深め向き合っていくことが求められる。但しこれは、その人が犯罪を犯したことを肯定することではありません。受容するだけです。相手にしてみれば、この人は理解してくれている、分かってくれている。その信頼感の中で、ここからどうするべきか自分で考えられるように寄り添う

 

主イエスを裏切ったユダを肯定することは出来ません。けれども、自分は安全な所に立ったままユダを否定すればそれで済むことでもありません

洗足の後、主イエスは、心を騒がせながら断言なさいました。「はっきり言っておく。あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている」(一三・二一)。主イエスのお言葉を聞いての弟子たちの反応は、誰について言っておられるのか察しかねて顔を見合わせた。みんな他人事ではなかった。さらにこの後、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と豪語しましたが、結局、主イエスのことを三度知らないと言って裏切ってしまった。他の弟子たちも、皆、主イエスを見捨てて逃げ去った。弟子たちみんなの弱さが明らさまになったことを聖書は正直に書き残しています。

 

既に悪魔は、裏切る考えを抱かせていた。この抱かせるという言葉は、元々は投げる、例えば石を投げるという言葉です。姦通の現場で捕らえられた婦人をめぐって、主イエスはこう言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ八・七)。こんな罪深い女は、と正に石を投げつけ、殺そうと身構えていた人たち、主イエスのこの言葉を聞いて立ち去って行きました。みな同じように弱さを、罪を抱えていることを、主イエスから指摘されたのです。だから、自分も同じ状況に立たされたら同じ事をしただろうと気付いて、主イエスの御前に、どうぞ赦して下さいと赦しの恵みの中に居続けるべきでした。主イエスはたった一人残った彼女にこう言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ八・一一)。あなたのこの罪を贖うために私は十字架にかかるのだ。だからあなたを罪に定めないと宣言下さいました

 

みんな、自らの罪があからさまになっていく。裏切るユダ、立ち去って行った人たち、逃げ去った弟子たち……、主イエスは、受容を超え、御前で明らさまになった私たちの全ての責任を負い、罪を贖い取るために体を裂き血を流されました。その十字架の恵みへ私たちを招き寄せられます。

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