日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年5月1日 説教:森田恭一郎牧師

「剣を鋤に。一つになる経験」

イザヤ  六〇・ 一~七
Ⅰコリント一二・一二~一三

平和をめぐって聖書はどう語っているのか、今日は、聖餐を念頭に置きながら一つになる経験としての平和を考えます。

先日のイースターでは、三名の方が洗礼を受けられ一同祝福に包まれました。洗礼を受ける意味は、古い自分に死んで新しい自分に甦らされることとお話しました。今日のコリント書の聖句からもう一つ別の仕方で表現することが出来ます。皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです(Ⅰコリント一二・一三)。洗礼と聖餐の聖礼典は、霊的な出来事を、見える仕方で現すしるし、恵みの手段ですが、この点から言いますと、洗礼は、一つの体となる、キリストの体なる教会へ加入することだ、と言えます。教会に加入することで、教会の頭であるキリストに繋がるという見えない事柄が実現します。

聖餐は、一つの霊を飲ませて戴いているとパウロは語ります。ただパンを食しワインを飲んでいるのではない。それでこそ、キリストに繋がっている見えない事柄を確認します。確認するというのは知識として理解するに留まらず、飲食という体験で霊的な見えない事柄を知ることです。

 

どのようにキリストに繋がっていることを体験するのかと言いますと、まず、パンが裂かれワインが注がれるのを見ながら、そのようにキリストの体が裂かれ血が流されたのだ、とキリストの死を告げ知らされて十字架の出来事を想起する。このパンを食し杯から飲むことによって、十字架の贖罪が自分のためにあったのだと、二千年前のエルサレムの自分の外で起こった出来事が、自分の中に起こる出来事なります。想起することが体験となりキリストの贖罪の業と自分とが繋がります。繋がりを聖餐にあずかる度に体験する訳です。

それからまた、キリストに繋がっていることは、神の国における食卓の前味を味わうことによって体験します。これは、主の晩餐の過去を想起するというより、終末の将来を待望することです。待望を聖餐に与って前味として体験する。

そして、十字架の想起するにしても天の国の食卓を待望するにしても、今、キリストがおられるということを、一つの霊を飲ませてもらうという聖霊の導きのもとで体験します。信じることです。

 

聖餐におけるこれらの体験は、聖餐にあずかっていない時にも有効な経験へと深まります。聖餐式の執り行われていない主日礼拝の時にも、また日曜日以外の週日の生活の時も、聖餐式の時に体験したことが、本当にそうなのだと信じて生きることが出来る経験へと深まっていきます。

ただ、困難の時、不安の時、キリストはおられるのかと信仰が折れそうになることがある。それで繰り返し体験することが私たちには必要です。それは丁度、小さな子どもが泣いている時に、親に抱っこされて安心するのと同じです。その時の安心の体験が、いつでも親に愛されている信頼へと経験化します。抱っこされていない時でも大丈夫、となっていきます。聖餐が繰り返し必要なのも、同じです。ただ、子どもはその親の愛の体 験が経験化することによって大人になっていきますが、信仰者は大人にならない。聖餐がなくても、主日礼拝がなくても大丈夫、ということにはならない。むしろ子どものように神の国を受け入れる人でなければ(ルカ一八・一七)という幼な子のような信仰に立ち戻ることが不可欠です。

 

そして今日の平和の主題と関わるのですが、この神の国の食卓に招かれるのは全ての人たちであるということです。主イエスがこう言われました。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く(ルカ一三・二九)。神の国の食卓、宴会を、今、待望することが出来るのは信仰を通してこれを受け取る信仰者だけです。その終末の到来の時に見るであろうと待望している光景は、万民が招かれている光景です。ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆(Ⅰコリント一二・一三)です。

聖餐における、キリストに繋がっていることの体験は、神の国の食卓の前味を味わう体験です。しかもそれは自分一人だけのこととしてではなく、世界中の人々と共にあずかる宴会の前味を味わう体験です。そこで宴会に招かれ食卓にあずかって、世界中の人々が一つとされている光景に包まれながら、キリストとの繋がりを体験します。

 

平和は皆が一つとされることです。争いは分断を招きます。神様の平和のヴィジョンは、キリストに於いて世界が一つになることです。世界中の人が、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう(イザヤ二・四~)。この光が輝かねばなりません。暗闇にあってもこの光を見失ってはいけません。だからイザヤは神の平和のヴィジョンを語ります。

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く(イザヤ六〇・一~)。この「あなた」とはキリストのことと考えましょう。そのキリストの下に国々の人々も王たちも、息子たちも娘たちも集ってくる。シェバの人々も皆、黄金と乳香を携えてくる。

この神様の平和のヴィジョンが、儚い夢物語ではなく本当だと明らかにして下さったのが歴史の中へのキリストの到来です。東方の学者たちが黄金・乳香・没薬をキリストに献げたではありませんか。パウロも高らかに宣言します。実に、キリストは私たちの平和であります。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るのです(エフェソ二・一四、一七~)。

このヴィジョンを、私たち信仰者は聖餐式において一つの霊を飲ませてもらい、一つの霊に結ばれる。その時、平和の実現を仰ぎのぞんでいます。聖餐のこの前味において、先取りして体験する。体験したことを日々確信して希望をもって経験にして歩みます。平和を祈り続けることが出来るのは、この経験によって支えられているからです。

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