日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年8月4日 説教:森田恭一郎牧師

「人々を義しいものとするために」

イザヤ書53章11節
ヨハネの手紙一3章4~18節
予告では聖書箇所をⅠヨハネ三・四―一〇としましたが、四―一八節に変更し、二回に分けてこの箇所の説教をしたいと思います。
この箇所において、御子主イエスの御業として記してある箇所をまず見たいと思います。あなた方も知っているように、御子は罪を除くために現れました(五節)。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです(八節後半)。イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました(一六節)。この主イエスの御業をまず、しっかりと受け止めたい。御父がどれほど私たちを愛して下さるか、考えなさい(三・一)とありましたが、主イエスに現れた御父の愛を考えねばなりません。そのためには、私たちが礼拝でしっかりとキリストに繋がることが不可欠です。そして考えれば考える程、十字架に示された神の愛は大きいと思いが深まります。
またイザヤ書では、彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った(五三・一一)。罪人の多くの人、これは全ての人と読み替えても誤りではありません。全ての罪人が正しい者とされるために、主の僕は彼らの罪を自ら負って下さいました。このことについて、イザヤが預言する救い主は、悲惨に感ずるのではなく満足する。苦しみの実り、正しい者とされた人間の姿を見て喜びに至っている。主にとっては苦しみがいがあった。自分のことだけを見たら悲惨ですが、相手のためになるなら喜びになります。

その次に、主イエスに明らかになったこの御父の愛を知り、私たちがなすべきことが明らかになります。これが今日の主題です。主イエスは十字架で命を捨てて下さった。このことに対応して、私たちは何を思い、どうなるといいのでしょうか。互いに愛し合うこと(一一節)です。そして更に、ヨハネははっきりと断言します。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです(一六節後半)。
この御言葉を聴いて、皆さんはどうお感じになりますか。多くの私たちは、たじろぐのではないでしょうか。皆さん、命を捨てていますか?

もっとも世界中のキリスト教徒が文字通りに行えば、世界中からキリスト教徒はいなくなってしまうでしょう。命を捨てるのですから。それで私たちは、少し読み替えてしまう。愛するということだ。愛することを、命を捨てるとヨハネは表現しているのだ。捨てるという言葉も、この用語の本来の意味は置くという言葉です。だから、ある物をゴミ箱に置けば、捨てるということになります。主イエスは十字架にご自分を置いて、それは兄弟のために命を捨てることとなりました。主イエスはそうなさいました。
ならば私たちは十字架には置かない。私たちが十字架にかかっても、主イエスのように他者の罪を贖うことにはならないからです。ならばどこに置くのでしょうか。
歴史においては、自らの信仰を貫き、神の栄光のために、自らの命を、各々の状況の中でそこに置いたキリスト教徒は数知れません。ローマ時代から殉教者たちはいました。また遠く日本にやってきた宣教師たち、命の保証はなかった。若くして亡くなったその家族もいます。日本でも公に信仰を貫いたが故に、特高警察に捕らえられて獄死した人たちもおりました。あるいは、例えば、結核がうつることを承知の上で、結核患者のために全てをささげた、後から見れば偉大なキリスト教社会事業家と言われる人もいます。当教会では、清教学園設立に向けて歩み出した。これも命捧げる思いなしには出来なかったことです。
今の私たちはどうでしょうか。それぞれの人生の営みにおいて、相手のために命を置き、差し出し、捧げ、その様にして相手のために、奉仕に生きる。そうやって神の栄光に仕え、その様に自分の人生を用いられて、用いてきた…。きっと自分の人生をそう思い返すことは出来ると思います。

それにしても、一六節の言葉、文字通り読むとやはりそのインパクトは大きい。私たちの多くが精一杯生きているけれど、兄弟のために命を捨てる、ここまでは決して出来ませんと、たじろいで言わざるを得ない、懺悔するしかないのではないかと思う。
それでこの一六節の言葉のインパクトを、どうせ無理だからと、そのまま読み過ごしてしまう…。でも、そうならないようにしたい。主イエスの十字架により救われて良かった、で終わらせてはいけない。そこから救われた者として生きることが展開しなければならない。兄弟のために命を捨てるべきです。強い表現です。こんなこと説教で語って、お前は大丈夫なのかと言われてしまいそうです。私だって大丈夫ではないです。自分の能力、やる気で頑張れと言われたら出来ません。
だから、逆にこの御言葉のインパクトから逃げないで、このインパクトに少しでも引きずられていなければならないと思う。それはどういうことかと言いますと、自分からは出来なくても、何か出来る状況に置かれたら、出来る限りで、神の栄光のために自らの命を捨てる。置く、捧げる。そのようにして兄弟を愛する。そこからでもいい。少なくとも出来る状況、出来る導きに置かれたら、捧げよう。
聖餐式において、キリストが十字架で私たちのために命を捨てられた。そこに、救われた確かさを私たちは戴きます。そしてそれで終わらないでもう一つ。兄弟を愛することへ招かれている、その招きをも戴いているのではないですか。主が招いて下さるのですから、その為に必要なことは主が備えて下さると信じます。自分の命、人生の、主の体である自覚がいよいよ深くなり、益々励んで主に仕えることが出来る者とならせて戴きます。

今日の週報に、婦人会が提案して下さった暑中見舞いのことを記しました。先日、写真の裏側に署名して戴いたものですから、縦書きで記しました時に、まだ乾いていないインクをこすってしまって、見た目に見苦しくなってしまいました。それで画用紙を貼って、すれないようにしましたので、せっかく署名して戴いたのに申し訳ありませんが、もう一度、綺麗に、思いを込めて書いて戴きたいと願います。
当教会は「栄光神に在れ」を掲げている教会です。そのために礼拝をささげ、宣教・教育・奉仕の営みがある。これらの営みを通して、教会員自身にとっても、地域の人たちにとっても「行ってみたい、また来てみたい、河内長野教会」になることを願っている教会です。
それでこの暑中見舞いが、神の栄光のためにとなるように、もう一度、ペンを取ってみましょう。今回は教会員のためにみんなで書く葉書ですが、この葉書を受け取った方たちが、皆さんの署名を見て、また行ってみたい、みんなに会いたい、一緒に礼拝をささげたい、そう思える様に用いられることを願います。出来れば署名だけでなく、宛名を見ながら、書ける人は、一言でいいですから、その人への思いを書き添えて下さると幸いです。

葉書を書く。ささやかな行いです。その時に、自分の命をこの葉書に置きます。それで宛名の人を愛することが出来る。兄弟のために命を置くことが出来る。言葉や口先だけではなく、行いを以て誠実に愛し合おう(一八節)とヨハネは語ります。葉書に署名する、このささやかな行いを以て、この葉書が、兄弟のために命を捨て、誠実に愛し合う署名の葉書になるに違いありません。そのように用いられますように。
互いに愛し合うこと(一一節)。教会では一面、すっかり聞き慣れてしまった言葉です。だから改めて、イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。ここであぁ良かったと終わらないで、だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです(一六節)。このように自らをささげて歩むべく、インパクトある御言葉としてしっかりと心に留めたいと願うものです。

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