日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年11月28日 説教:森田恭一郎牧師

「主の山に備えあり」

創世記 二二・ 六~八
ヘブライ一一・一七~一九

ヘブライ書は、信仰によって生きた旧約の登場人物、その信仰を思い巡らし黙想しています。アブラハムのイサク奉献の記事を黙想します。創世記二二章の書き方は、解釈なしに出来事を淡々と語り通します。それで、アブラハムの信仰を語る今日のヘブライ書もまず、その出来事を出来事のまま要点だけを語ります。信仰によってアブラハムは、試練を受けたときイサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました(ヘブライ一一・一七~一八)。

もちろん、ヘブライ書は、アブラハムの出来事を聞きながら色々思ったに違いありません。例えば、神様は何故アブラハムを試みられるのか。また、神は子孫を与えると約束しておられたのに、何故、その独り子イサクをささげよと、ご自身の約束を無意味にするようなことをお命じになられたのか。何も悪いことはしていないのに、こんな試練を与えるなんて不条理ではないか。アブラハム自身は神の命じたもうことを聞いて何を思い、そして何故、この理不尽な命令に聞き従い得たのか等々。疑問や批判や反発などの様々な引っかかりが黙想の中に広がります。聖書の言葉を聞いて、最初から何でもかんでも納得しなければならないことはありません。ヘブライ書自身が黙想している。ただ黙想内容は記事としては省いています。

そして黙想して導かれた理解を次に語ります。アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼はイサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。これは創世記には書いていない言葉ですから、黙想の結果、導かれたヘブライ書の理解した内容です。

このように、語りかけを聞き、黙想し、導かれる。ヘブライ書のこの営みを、私たちも自分なりに共有してみたいと思います。

本日の婦人会例会で今日の説教を聞いて語り合う時を持たれるとのこと。それで、それに先だちある文章を、少し長いですが紹介します。『自伝的説教論』を著された加藤常昭牧師の文章です。

 

「いつからであったか、毎月一回、主日礼拝の後でお茶の会をした。明確な目的を持った集いであった。主題は、その日に聴いたばかりの説教であった。どのようなことでも良いから、説教について感想を述べ、疑問を提出し、語り合う。しかも説教者自身は、それらの言葉に耳を傾けるだけで、自分からは発言しない。

ある時、他教会の会員である青年が、たまたま上京したというので礼拝に出席、お茶の会に出た。帰りに玄関で見送っていると、思い切ったような顔をしてこう言った。「今日はびっくりしました。説教について皆言いたい放題のことを言っていましたね。よく先生はにこにこして聴いておられますね」。私は反問した。「あなたの教会の牧師は教会員が説教について何か言ったら何と言われるの?」。答えはこうであった。「説教について何か言ってご覧なさい。『わしの言葉は神の言葉じゃ、黙って聴け!』と言われます。私は「そう、それも正しいよ」と答えた。説教は、礼拝が終わればその使命は終わる。礼拝の後で説教について論じることは、その意味で間違っている。これもまた正しい主張である。

それらのことを踏まえながら、私は敢えて説教について語ってもらった。ひとつには単純なことであって、説教を聴いたらそれぞれ心中に、様々な感想を持ったに違いない。説教はもともと会衆との対話をしている面がある。いや、説教者が対話すると共に、むしろ、説教者が取り次ぐ神との対話が起こっている。それを口に出してみることも大切ではないか。

説教の時間をきちんと計って、長すぎたと言う人もある。そのような意見も無視することはない。長すぎると思った人にとって説教は退屈であったのであり、よく分からなかったのである。説教の内容を反芻して語る(聞き手の)言葉を聴くと、自分が語ろうとしたことが伝わっていないことに気付く」。本からの引用はここまでとしますが、今日は、どう聴いたか、みんなで遠慮なく語り合って欲しいと思います。

 

さて、聖書に戻ります。創世記もヘブライ書も神がアブラハムを試されたことを語ります。それが、独り子イサクを献げなさいという試練です。もっとも終わりには実際にささげる雄羊を備えて下さったので、「主の山に備えあり」(創世記二二・一四)と創世記は語ります。教義学的には、神の備えを見る摂理の話にもなります。

創世記二二章が告げる神様は、試みたもう神であり備えたもう神です。同様にヨブもひれ伏して言いました。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記一・二一)。イザヤも語ります。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをするものである」(イザヤ四五・七)。正に神が神であられるとはこういうことか、と思わされる記述です。ヘブライ書は恐らくこれらのことも踏まえつつ、信仰とは見えない事実を確認する、不条理や災いの向こう側に神が望んでいる事柄を見ていくことだ、と語っているようです。

モリヤの山に行く道すがら、息子イサクが尋ねます。イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」(創世記二二・七)。焼き尽くす献げ物はお前だ、とはさすがに答えられません。答えられないというより、そこでアブラハムの信仰が試される訳です。イサクが、小羊は連れて来なかったのかと今に至るまでの過去、後ろを向いて問題にします。それに対してアブラハムは答えた。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(同八節)。神が備えてくださる将来、前を見据えます。これが摂理信仰です。

 

そしてと言うべきか、それにしてもと言うべきか、神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。み言葉をここから聴くとき、私たちはみんな戸惑います。息子を殺してささげるなんてアブラハムは何と非人道的なことをするのかと。

これに対して敢えて言えば、神の圧倒的な語りかけの迫りを前にして、受けとめるしかなかったのでしょう。例えての例の出しようもありませんが例えば、自分が癌になった。遂に来たかと思う。あるいは自分の息子が癌になって余命あとわずか、そう宣告されたら、平然でいられるはずはない。途中経過としては、こんなはずはないと否認したり、何故こんな事になるのだと怒ったり、こうすればなかったことにならないかと取引したり、鬱状態になったり、諦めになったり、色々あって当然です。その結果は、受けとめていくか、受けとめられないまま事実が迫ってくる中に身を置くしかありません。その姿に、他者に置き換えられないその人の人格と人生の固有さが現れる訳です。第三者がその時に、もっとこうしたらいいのに、などと口を挟むことは出来ません。

その時、その時に出来ることを精一杯しながら、最後に出来ることは、神様にお任せすることです。課題は、神だけが頼りなる、そういう希望を持てるかということです。そこで信仰が試される。その信仰とは、信じれば治るという信仰ではない。受け止め難い現実の向こう側に、見えない事実を見出していく信仰。いや見えないから自分には分からないけれども、神がご覧になっておられる向こう側、神が望んでおられる事柄に委ねる。その時、人は不条理の現実を受けとめる道が開かれる。

 

ヘブライ書は、この時のアブラハムを、黙想の末、特に「備えて下さる」を巡る黙想の末、こう表現しました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。神様が「献げなさい」と仰り、同じ神様が「子孫を与える」と仰るなら、生き返らせて下さるとアブラハムは信じたのだ、とヘブライ書は導かれた。それは、アブラハムの願い事や彼の希望というより、神の摂理です。それをアブラハムは信頼した。そして、雄羊が備えられた結果を受けて、彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です、とヘブライ書が導かれたことを記したのでした。

 

もし、私たちが納得しがたい困難が襲ってきた時に、困難の向こう側に、神様が望んでおられる希望、備えて下さる摂理を見出し、信頼出来るだろうか。出来るようになるための根拠は何か?

それは、父なる神様が御子を献げられた事実です。アブラハムの場合は雄羊が備えらましたが、御子の場合はそのまま十字架に付かれた。御子を献げるその痛みをアブラハム以上に、父なる神ご自身がご存知であり、それを御子も受けとめ、向こう側にある摂理にお委ねになった。結果がどうなるか、ご自分では決められないままお委ねになりました。その結果はご復活でありました。

自分の人生にも、神は共におられ摂理がある、と信じて良い、と望みを与えられている訳です。

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