日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2017年10月15日 説教:森田恭一郎牧師

「万人祭司の挨拶」

イザヤ書6章8節
テサロニケの信徒への手紙一5章26節
イザヤは主なる神の御声を聞きました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤはこう応えました。「私がここにおります。私を遣わして下さい」。そして今日、教会と教会の私たちが応える。「私がここにおります。私を遣わして下さい」。

「全ての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい」。
私たち日本文化に生きる者にとっては、挨拶として口づけをする、接吻をするという習慣がありません。ただその分、私たちの挨拶が軽くなっているかもしれない。それに比べ、握手をし、両手を広げてハグをして抱き合い、接吻までする。体全体で挨拶する。 いつだったか聞いたのですが、挨拶は、私はあなたに対して敵対していません、ということを表しているのだというのです。国賓を招くとその国の軍隊は空砲を打って迎える。実弾はありません。打ちませんよとうことを表します。我が家にたまたま白人の宣教師と黒人の友人をお招きすることがありました。その時白人の宣教師は挨拶と同時に真っすぐに手を差し出して握手を求めた光景は私の頭に残っています。そういうマナー。

そして今日は、この挨拶について、単なる「こんにちは」というような道徳の礼儀としての挨拶を越えて、挨拶に込められたことを積極的に表現するとどうなるかを、私たちはお互いに「万人祭司」であるという視点から考えたいと思います。
まず、福音書から、接吻の場面を二つ思い起こしたいと思います。一つは、ルカ福音書7章、この町で「罪深い女」と言われていた、主イエスに香油を塗った女の人の記事。45節(p.117)。彼女は主イエスの足に接吻して香油を塗りました。彼女の接吻は主イエスの愛に対する応答の挨拶です。主イエスは、同席しているファリサイ派の人に対して「あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻をしてやまなかった」。続けて言われました「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。そして主イエスが彼女の罪をお赦しになったことを再確認するようにして「あなたの罪は赦された」と宣言なさったのです。
もう一つはルカ福音書22章47節、ユダの接吻です。この接吻を受けて主イエスは言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。

大祭司であられる主イエスは、あの女の人とユダの二人のどちらをも、そしてその罪を担い十字架の両手を広げハグするようにして、全身を以て受けとめておられる。これが主イエスの私たちに対する大祭司の挨拶であります。罪の赦しの宣言の挨拶です。
私たちはどうなのか、聖書の挨拶は主イエスに対する挨拶の中身、その質を問うている。主イエスの十字架で全身を以てする挨拶を受けている身です。そのような者として私たちはお互いに挨拶する。
単なる道徳律としての形を整える挨拶ではない。私もあなたも、主イエスが十字架の贖いを以て罪を赦して戴いた者同士です。その思いを以て「お早うございます」と挨拶する。マタイ福音書の復活記事の所で、墓から走って来る婦人たちに出会い「お早う」と言われた場面があります。あの「お早う」は直訳すると「喜べ」。私たちもその思いを以て「お早う」と挨拶する。
もう一つ福音書からマタイ10章12節(p.17)「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」。挨拶をしてその家で何をするのかというと、7節からのみ言、「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。この主イエスのお言葉を受けて、そこから出て行って、町や村に入り、家に出向いて平和の挨拶をする。ただ挨拶すればいいのではない。「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う。この一連の宣教と癒しの業、奉仕ディアコニアと言ってもいい、これが挨拶に込められている。そして実際となる。
だから私たちは、教会の礼拝でただで恵みを受けたら、ここから出て行って「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う。これは、特別なことのように思えますが、礼拝から始まる私たちキリスト教徒の日常生活=クリスチャンライフの本質を現していると言えるのではないですか。
イザヤは召命を受けた時、主のみ声を聴いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤは応えました。「私がここにおります。私を遣わして下さい」。私たちも、主の御声を聞くのでは名でしょうか。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。この御声に導かれて、毎週私たちもここから出て行くのです。
キリストに出会った私たちの挨拶は言葉掛けに留まらない。
「挨拶」という用語の通常の概念からは広がりますが、「聖なる口づけに」よってする程の挨拶は、もっと相手をキリストの赦しの中に相手を見出すことであり、更に「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人を癒す行為となる。病人を癒すという表現は一例です。テサロニケ一の5章に戻りますと、例えば14-15節に記される行為は、私たちの挨拶であると言ってもいい。「兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。全ての人に対して忍耐強く接しなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、全ての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。
皆さんは皆、祭司です。出エジプト記の紅海の奇跡の出来事の後主は言われました。「あなたたちは、私にとって祭司のお王国、聖なる国民となる」。万人祭司です。全信徒が祭司です。司祭や修道士だけが祭司なのではない。皆が祭司です。教会は祭司の共同体です。みんなが挨拶をし合う。恵みを分かち合う。祈り合う。主イエスを証し、そして皆のために奉仕する。
そして皆さんは100%でなくても、既にこれらのことをしているのではないですか。祭司として生きておられるのではないですか。礼拝から出て行くクリスチャンライフが始まっている。もっとも充分に出来ませんでした、ということもある。その弱さ・不十分さを抱えながら、あるいは問いかけを抱えながら、礼拝に向かう。
遣わされて礼拝から出て行き、報告すべく礼拝に帰り行く、毎週毎のクリスチャンライフを祭司として生きているのです

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