日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年1月2日 説教:森田恭一郎牧師

「み言の前と後ろに」

ヨシュア記六・一二-一九
ヘブライ一一・三〇-三四

新年、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。私たちは今年も、神様の御前に礼拝者でありたいと願います。また「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ一一・一)から神様が約束下さる「望んでいる事柄」、神様が約束下さる「見えない事実」を確認する信仰によって歩み続ける一年でありたいと願います。

 

今日の聖書は、ヘブライ書がヨシュア記の記述とそれ以降の信仰者たち、ギデオンから預言者たちをまとめて取り上げている箇所です(一一章二七節~二九節のモーセの後半部分は、後日受難節の時に味わいたいと思います)。

モーセ亡き後、主はヨシュアに語ります。「私の僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民全てと共に立ってヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。強く雄々しくあれ。あなたは私が先祖たちに、与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセが命じた律法を全て忠実に守り、右にも左にも逸れてはならない」(ヨシュア記一・二、五~七)。土地取得の約束を再確認なさいます。この主の御言葉をヨシュアは今度、人々に伝えてこう語ります。「主の僕モーセが命じた言葉を思い出しなさい」(同一三節)。「御言葉を思い出し」というのは、御言葉に背中を押されるようにしながらとでも言いましょうか。私たちで言えば、日曜日、主日礼拝において聴いた御言葉に押し出され思い出しながら、月曜日からの週日を歩みます。教会の祈祷会で、日曜日に聴いた礼拝説教を踏まえたお祈りを献げて下さる方々がおられます。御言葉を思い出しながら祈り歩まれている一例だと思います。

今日の聖書箇所で言うなら、翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ(ヨシュア記六・一二)。七人の祭司は、背中を押されるようにして十戒の御言葉の入っている主の箱の前を進みます。祭司だけでなく武装兵たちも、武装兵は、更にその前衛として進み、とある通りです。

そしてそれに併せてもう一つ心に留めたいことがあります。それは、また後衛として主の箱に従った(同一三節)。後ろから主の箱を追うようにして進みます。それは、私たちで言えば、次の主日礼拝の御言葉に向かって週日を歩むのに似ています。私たちの一週間の生活は、思い起こす御言葉は完全でも、私たち自身はあくまで不完全であり未完成ですから、課題にぶつかったり過ちを犯したりします。その課題を携え、罪を背負いながら次の主日礼拝に臨むのですね。

主日毎に新しく御言葉を聴き、その主日礼拝から始まり、次の主日礼拝に向かい、新たに御言葉を聴く、その一週間の生活を五十二週重ねていくのが一年間の営みです。

 

さて、今日のヘブライ書で興味深いのは、信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ(ヘブライ一一・三三)と記している点です。私たちが馴染んでいるのは、この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを望み見て…という聖句(ヘブライ一一・一三)だからです。約束されたものを手に入れたのか入れなかったのか、どっちなのかと問いたくなる所です。

考えてみれば私たちも、この両面を同時に経験しながら信仰生活を営んでいます。主の祈りでも一方では御国を来たらせたまえと祈ります。これは救いの完成の時までは完全な御国は来ない、その意味では手に入れることのない、はるかに望み見る希望の事柄です。もちろん神様がもたらして下さる確かな、御国の希望ですが…。他方、御心の天に成る如く地にもなさせたまえと、歴史の中で信仰者としての使命意識を以て生きる姿勢を応援する祈りを祈ります。そしてそのために必要な日用の糧を与えたまえと、手に入れることを前提にして併せて祈ります。両面あります。

 

ヨシュア記において約束されたものは、カナンの土地です。そしてその最初の初穂として描かれるのがエリコです。ヘブライ書は、信仰によってエリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました(ヘブライ一一・三〇)と記します。城壁の周りを七日間回った。回ってスタート地点に戻ってくるだけで、軍隊が包囲するのではありません。注解書によりますとこれは戦闘行為というより宗教儀式でありました。過越の祭の中で酵母を入れないパンを七日間食べる(出エジプト記一二・一五、一三・六)宗教儀式を重ねています。そして七日目に七度回って、祭司が角笛を吹き鳴らすとヨシュアは民に命じた。「鬨の声をあげよ主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」(ヨシュア記六・一六~一七)。小羊を献げるように町を献げます。信仰による宗教行為です。この町を与えるという神のご計画、そのご計画の約束を語る言葉を思い起こし、御言葉を信じる信仰によって、ヨシュアは背中を押されるようにしてエリコを手に入れます。

 

ヘブライ書が次に目を留めるのはラハブです。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました (ヘブライ一一・三一)。何故、ラハブが探りに来た者たちをかくまったかと言うと、彼女がイスラエルの神のことを聞いたからです。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア記二・一一)。この認識がその時点で彼女の信仰であったとは思えませんが、そういう神であるなら、エリコの町は滅ぼされる。そうならばと、探りに来た者たちを当局に密告するのではなく迎え入れます。そして迎え入れたことによって、彼女と一族は城壁が崩れる前に助け出され、救出を手に入れる訳です。

この出来事は後に、滅ぼされるべきエリコの住人であったラハブが神の恵みによって救われるしるしとしとして受けとめられました。私たちも罪人として滅ぼされるべきなのに、キリストの恵みによって救われます。そのしるしです。

それからラハブは、マタイ福音書のイエス・キリストの系図に登場します(マタイ一・五)。それによると、ラハブはルツの夫、ボアズの母です。その子孫からダビデが生まれ、イエスの母マリアの夫ヨセフにまで至ります。この事は、ラハブ自身は知りませんし手に入れる事の出来ないことです。でも神様の側からすれば、キリストへと至る救済の歴史のご計画、その約束の中に、ラハブは位置づけられていたことになります。ヘブライ書から見れば、ラハブもまた、約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを望み見て信仰を抱いて死んだ、信仰の先達なのです。

 

さて私たちはどのような神様の約束、ご計画の中にあるのでしょうか。どのような神様の約束を思い描いて地上の歴史を歩むのでしょうか。私たち一人ひとりへのご計画、そしてまた、教会に対するご計画はどのようなものでしょうか? 河内長野教会は、この地で毎週礼拝をささげ、伝道、教育、牧会に励み、また清教学園の生徒や教職員、幼稚園の園児や保護者たち、社会福祉の営みを必要とする聖愛保育園の保護者や子どもたちを、愛を以て覚え、そこに主の栄光が現れるために祈りを合わせていきます。

歴史の営みは、まだ手に入れない約束されたものをはるかに望み見つつ、未完成の部分を進みゆく地上の歩みです。より大きな約束への途上としての、必要に応じて小さな約束を与えられながらの営みです。今年の一年は、その途上、神様のご計画のどのような部分を歩む一年になるのでしょうか。当初はまだ見えない事実を聖霊が私たちに現して下さるに違いありません。必要なものも与えられるでしょう。

地上の営みにおいて大事なのは、真の神を神とし礼拝者であり続け、主なる神の御言葉に聴くことです。御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます(詩篇一一九・一三〇)とありますから、御言葉によって方向性が示されます。そして信仰の幻を抱き、信仰者として祈り、現実に対応しながら信仰によって歩むことです。教会もまた御言葉によって改革されていきます。

 

主イエスが、聖餐を制定なさり、十字架に向けて歩まれるとき、主イエスは父なる神様の約束とご計画を堅く確信しておられました。ヨハネ福音書が記す主イエスの御言葉を紹介して終わります「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ一六・二三)。

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