日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年11月14日 説教:森田恭一郎牧師

「はるかに望む、天のふるさと」

イザヤ 四九・一四~一六
ヘブライ一一・一三~一六

本日は、皆様、家族友だち礼拝ならびに召天者記念礼拝にご参列戴きまして有り難うございます。お子様と共に、また久しぶりにご一緒に礼拝をささげることが出来ますこと大変、嬉しく存じます。

私たちには「はるかに望む天の故郷」がある。これが今日、ご一緒に分かち合いたいことです。

 

子どもさんたちの中で、おじいちゃん、おばあちゃんが死んでしまった子どもたちはいますか。大人になってくると、お父さん、お母さん、また親しい大切な方を亡くされた方も大勢おられることと思います。

それでは、そのおじいちゃん、おばあさん、そのお父さん、お母さんは、どこへ行ってしまわれたのでしょう。そして今はどこにおられるのでしょう。お墓の中ですか? お墓の中にあるのはお骨です。でも、亡くなられた方はお墓の中ではありません。天国に行かれました。

聖書に書いてあります。私たちの本国は天にあります(フィリピ三・二〇)。皆さんの国はどこですか。少し難しい言い方で、皆さんの国籍はどこですか。ここにいるほとんどの皆さんは日本ですね。あるいはインドネシアだったり、韓国だったり、世界中いろいろあります。でも、私たちは誰であれ、本当の国は天にあります。今日この後、霊園に行きますが、教会のお墓には、我らの国籍は天に在り(同文語訳)と書いてあります。 私たちの国籍は天にある(同口語訳)という意味です。同じ事をヘブライ書では「天の故郷」=「天のふるさと」と言っています。あれっ? 私の故郷、ふるさとは河内長野ですよ、と思う人もいるかもしれません。もちろんそうなのですが、それは地上での話。本当の故郷は天にあるのですね。

 

それで、今日の聖書、旧約聖書の信仰者たちのことを語っていますが、その聖書の言葉を聴きながらゆっくりと味わってみましょう。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷すなわち天の故郷を熱望していたのです(ヘブライ一一・一三~一六前半)。私たちは、例えば地上の国籍は日本だし、生まれ育った故郷は河内長野ですが、本当の国も故郷も天にあります。だから天の故郷を知って、天の故郷をはるかに望み見て熱望するようになると、私たちは地上ではよそ者であり仮住まいの者になるのですね。

 

ここにいる子どもたちは何歳くらいまで生きるでしょうか。百歳くらいまでは生きるのが普通になるのでしょう。みんな長生きですね。それでは、地球が誕生して何年になるか、知っていますか? およそ四十五億年。地球の年齢に比べると、私たちの年齢ってとっても短いですね。天の国、天の故郷に行ったら永遠です。それから見れば、私たちの地上での生活はほんのちょっぴりの長さですね。天に行ったら、地球上での自分は短い期間の仮住まいだったと思うようになるのでしょう。だって、私たちには、天の故郷があるのですから。そして故郷はその人にとって都でもあります。

 

その上で、今は、この地球に生まれてきたのですから、この世にあっては仮住まいの者であっても、またお互いがよそ者のように思えたとしても、しっかり生きたいと思います。しっかり生きるとは、ある人の言葉ですが「周囲の人の温かい助けや支えによって、より多くの人が、心を大切に守りながら生きていける社会となる」ようにしていくことです。先週もお話したのですが、アブラハムが「祝福の源」として生きるように召命を受けたように、私たちもキリストから祝福を戴き、それを分かち合って友だちでも誰であっても相手の人に対して祝福するということです。

 

ヘルマン・ヘッセという詩人がいます。ここに「春のことば」という題の詩があります。

どの子どもでも知っている。春の語ることを。

生きよ、伸びよ、咲け、望め、愛せ、

喜べ、新しい芽を出せ、

身を投げ出し、生を恐れるな。

皆さん、地上に生まれてきたときのことを想像してみて下さいませんか。お母さんのお腹の中に居たときには、暖かくて気持ち良かったに違いありません。身体はおへそを通して栄養は届くし、お母さんの心臓の音がいつも聞こえて気持ちも安心でした。ところが、ある日「さぁ、お母さんのお腹の中からもう出ましょうか。喜べ、新しい芽を出せ、身を投げ出し、生を恐れるな」。赤ちゃんにしてみれば喜ぶどころではない、この先はどうなるのだろうと不安だったし、いざ身を投げ出すと言っても、産道を通って出てくるのは大変だったと思います。もっとこのまま居たいのに、と思ったのではないでしょうか。

でもいざ、おぎゃー、おぎゃーって、それが朝だったら眩しそうにしながら生まれてくると、助産師さんが受けとめてくれて、すぐお母さんの胸の所にしっかり抱かれて安心でした。そして、皆さんも伸び伸びと、今日まで成長してきました。

 

ここで旧約聖書の言葉も思い起こしましょう。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私(=神様)があなたを忘れることは決してない。見よ、私はあなたを私の手のひらに刻みつける(イザヤ四九・一五~一六)。手のひらにしっかりと刻みつけておられる。この箇所を読みますと主イエスを思い起こす方もおられるでしょう。主イエスの手のひらに刻み込まれた十字架の傷跡のことです。神様は主イエスの手のひらに私たちを刻み込んでおられる。地上の私たちを消し去ったり忘れ去ったりはなさらない。

ヘルマン・ヘッセの詩「春のことば」、続きがあります。今度は老人への語りかけです。

どの老人でも知っている。春の語ることを。

老いたる人よ、葬られよ。

元気な少年に身を譲れ、

身を投げ出して、死を恐れるな。

天の故郷に行くのはどんな感じなのでしょう。神様のお定めになられた一番良い時が満ちて、身を投げ出すようにと招かれ、天の都の門をくぐると光り輝く天の都です。神様がしっかりと抱き留めて下さって安心、という感じなのでしょう。

 

天の故郷を熱望していた地上の信仰者のことを語った次に、ヘブライ書は続けて、神様のことを記します。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです(ヘブライ一一・一六後半)。

天の都に迎え入れられた時には、一層、誰もがやっぱり聖書の通りだったと確信します。神様が私たちの神様となっていて下さった。神様は私たちの神と呼ばれることを恥とはしておられない。私たちのために都を準備しておられて、喜んで私たちを天の都に迎え入れて下さったと。

そして天の都に神様が、みんな忘れ去られることなく迎え入れている。そして自分より一足先に迎えられた、先輩たちと共に礼拝をささげています。神様有り難う、私たちも神様を恥としません。福音を恥としません。栄光神に在れ、と神様を賛美して、天上の礼拝に自分も参加している。私たちはこう確信するに違いありません。

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