日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年6月20日 説教:森田恭一郎牧師

「錨のようなこの希望」

創世記二二 ・一五~一八
ヘブライ六・一一~二〇

私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの(ヘブライ六・一九)。今日は希望の根拠、頼りになる安定した錨のような、希望の根拠についてお話します。

 

先週の主日礼拝では、前日に逝去された故小林勝さんのお棺を礼拝堂内に安置して、礼拝をささげることが出来ました。礼拝に出席したい思いを強くお持ちであった勝さんが、施設入所と入院で叶わなかったことを考えますと、幸いな事であったと思います。もちろん、ご本人は天の国に既におられるのですが。勝さんが二〇〇三年に記された信仰所感の短い文章があります。「如何なる時、如何なる場所にも、主が、優れた牧者と指導者と友を与え導いて来られたと信じています。良き時も悪しき時も、限りない主の善意と祝福に与り感謝します」。六六歳になった勝さんにとって「感謝します」と振り返ることが出来る人生でした。

感謝出来るのは、限りない主の善意と祝福の故なのですが、短い地上の人生で私たちが直接認識できる経験は、主が与えて下さった牧者、指導者、友の存在です。ヘブライ書も語っています。私たちは、あなた方各々が最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなた方が怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となって欲しいのです(ヘブライ六・一一~一二)。勝さんもまた、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う信仰者のお一人であった。勝さんの信仰所感を読み、思いを深くしました。

 

今に至る人生を振り返り、その中で出会う事の出来た信仰の先達を感謝の内に思い起こし、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う。それはそのまま、将来に向かって希望を持ち続ける営みです。過去を振り返り、希望の内に将来に向かう。それをしている現在、それは時に不安に襲われ、希望を見失いそうになる今であります。一一~一二節の聖句は、ヘブライ書記者の教会に対する切なる願いを記したものです。当時のことです。教会に対する迫害があり、それ故に背教者が続出し、多くの人たちが教会から離れて行った。その中で、希望を持ち続けよう、あなた方も約束されたものを受け継ごう、と訴えている。

信仰と忍耐によってとあります。ヘブライ書は信仰をこう語っています。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ一一・一)。信仰とは望むことです。また忍耐、パウロが語ったことを思い起こします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(ローマ五・四)。現在の苦難が希望に至ることを語っています。信仰を捨てそうになる苦難の中で、希望を持ち続けることをヘブライ書記者は切に願っています。これが私たち信仰者の側の課題です。

 

けれども、信仰に基づく希望が、私たちの単なる思い込みでは、実に頼りないことになってしまいます。それで、人間の側の課題に先立って、言わば神様の側の課題がある訳です。希望が信仰者の単なる思い込みではなく、希望を確かにする。更にそれを私たち人間に明らかにする課題が、神様の側にある。もちろん、神様はそれを成し遂げて下さいました。神様の側で何を成し遂げて下さったのか、それを記すのが今日の聖書個所です。

 

それが、神様の誓いです。神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「私は必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです(ヘブライ六・一三~)。ここで神様は御使いの口を通して、アブラハムに対して祝福を約束するのですが、このことを誓った相手はと言うと、ご自身に対して、自らにかけて誓ったのです。

そもそも人間は、自分より偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、一層はっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証だと語っています。賛否の議論を超えたものだからです。神様が誓いを為さった。人間の側から疑う事なんて出来ようか。誓いによって、神様御自分の計画、私たちへの約束されたもが変わらないことを示されました。

ここでヘブライ書が引用しているのは創世記の独り子イサクを献げた箇所に続くアブラハムの記事です。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである」(創世記二二・一五~)。アブラハムは、神が彼に現われて最初に約束して下さった時点から二五年経って与えられたイサク、そして少年になった独り子イサクを本気でささげようとした。自分の独り子である息子すら惜しまなかった。その瞬間、ストップがかかり、代わりに雄羊をささげることが出来た。

 

ヘブライ書の記者は知っています。神様は、自分の独り子、御子キリストを惜しまなかった。本当に十字架にかけてしまわれた。アブラハムのイサク奉献の記事は、十字架のキリストを証しする出来事となりました。神様は誓いを一層、確かにされた。キリストが人間の罪を背負って戴くことによって、約束されたものを受け継ぐことが確かに出来るように、神様の側でして下さった。ご自分の計画が変わらない。誓いを偽ることはあり得ないことを明らかになさいました。神様の側の課題を、神様はちゃんと果たされています。    それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来た私たちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはあり得ません(ヘブライ六・一八~)。私たちの希望は思い込みなんかではない。確かな、頼りになるものです。

この希望を持ち続けるようとして、時に私たちに迫られるのは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来た私たち。私たちがキリスト教徒として地上の歴史を歩む時、一方で、地に足をつけて歩み、地域の中でしっかりと責任を果たしながら信仰の証しを立てて行くことが求められます。  しかし他方、逃れてもいいこともある。クリスマス、ヨセフが幼子と母マリアを連れて、急ぎエジプトへ逃れました。詩編にも例えばこういう言葉があります。主は彼を助け、逃れさせて下さる。主に逆らう者から逃れさせて下さる。主を避け所とする人を、主は救って下さる(詩編三七・四〇)。

 

教会はよく舟に例えられます。世の中の嵐に翻弄される船のようなものです。この世の営みである限り風や波がある。どの時代にあっても、困難を伴ったり、欠けがあったり、何かゴタゴタがあったり……。でもそこで、それに翻弄されないしなやかさが教会にはあるのではないでしょうか。

錨を降ろせば流されません。その錨は主イエスが約束された希望です。だから嵐の中にあっても、絶望することはない、希望を持ち続けよう。そうヘブライ書の記者は励まします。いや記者が励ましているのではありません。神様が二つの普遍の事柄によって力強く励まして下さいます。二つの事柄とは、誓いと約束のことでしょう。更にキリストにおいて明確になりました。私たちは主に望みを置く(詩編三七・三四)ことが出来る。

もう一つ、福音書の記事を思い起こします。ペトロが舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけた(マタイ一四・二八~)。ペトロが沈みかけたのは、強い風に気を取られたからです。この時に大事なのは、風や波があっても、主イエスを避け所に、主イエスに望みを置き、主イエスを目指すことです。私たちが沈まないしっかりとした実力を持つことではない。しっかりしておられるのは主イエスです。大事なのは主イエスを見続けることです。目指す希望は思い込みなんかではない。私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです。

 

私たちは主イエスを目指すのですが、地上で見えるのは信仰の先達の一人ひとりです。主イエスを目指して約束されたものを受け継ぐ、そういう先達の人たちの後姿を見倣っていきたい。

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