日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2020年11月22日 説教:森田恭一郎牧師

「開かれた門が天にあり」

エゼキエル一・一
黙示録  四・一~一一

本日は教会の暦では、終末主日です。今週の土曜日がいわば大晦日にあたります。来週の日曜日がいわば元旦で、教会の暦では新しい一年が始まり、待降節になります。

終末というと終わり、何か最後の審判とか滅亡とか、怖いイメージがあるかもしれませんが、いつも申し上げる通り、目標、ゴール、救いの完成を意味するものです。その希望を確認して主をほめたたえるのが終末主日の主題になります。

年に数回、そして終末主日には毎回、ヨハネの黙示録から御言葉を味わっています。黙示というのはそれまで隠されていたことを示すこと、示されたことを記録したのが黙示録です。

今日は第四章。第四章は、その後、私が見ていると、と書き始めます。見ている内に示されてきたものは、見よ、開かれた門が天にあったという光景です。そして声でした。そして、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声(一章一〇節以降の所で聞いたあの声です)が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」。

新共同訳聖書は、第四章に「天上の礼拝」という小見出しを付けています。天の門に入って通り抜けると、そこに見た光景は天上の礼拝の光景です。語りかける声が、見よと命じている訳ですから、今日は第四章を味わって、私たちも天上の礼拝の光景を見ているかのようにイメージする、その光景を思い描きたいと思います。

 

ヨハネが天上の礼拝の光景にまず見たものは、二節以下、私は、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた(黙示録四・二~)。そしてまた、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた(四・四)。さらにまた、この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいた(四・六~)。そしてこの生き物の様子を書き記しています。その姿は獅子=ライオンのようであり、雄牛のようであり、人間のような顔を持ち、鷲のようであった。預言者イザヤが神殿で見たあのセラフィムという天使に似ているようでもあります(イザヤ六・二)。このような所を読むと、何だか訳が分からないという印象を持ってしまいます。でも、あまりこれらの細かいことに捕らわれないで読み進めましょう。

大事な事は、この長老たちと生き物が礼拝をささげていたということです。まず四つの生き物は、彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(四・八後半)。それから、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるに相応しい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(四・一〇~)。このように天の玉座に座っておられる方に、四つの生き物と長老たちが礼拝をささげている、これが天上の光景です。

 

ヨハネはこのような礼拝の光景をどうしてイメージできたのでしょう。“霊”に満たされた、というのですが、何か幻聴が聞こえて来たとか、幻視が見えて来たのでしょうか。恐らくそういうことではなく、旧約聖書の聖句に思いを巡らす中でイメージしました。と言いますのは、黙示録には旧約聖書の言葉がよく用いられているからです。例えば、私が見ていると、これはエゼキエル書一章四節にもそのままあります。それからその後、私が見ていると、見よ、開かれた門が天にあった(四・一)、これも同じくエゼキエル書にもある聖句と似ています。全く同じという訳でありませんが、エゼキエル書の冒頭にそのとき天が開かれ、私は神の顕現に接した(一・一)。天が開かれるというのは、ただ天の都に入るというのでなく、神の顕現に接することなのですね。

また、玉座に座っておられる方について黙示録は四章三節で、その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていたと記しますが、エゼキエル書一章二八節は玉座にいるお方についてこう模写します。周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の有様であった。私はこれを見て平伏した。旧約聖書の虹という言葉から、ノアの希望の物語を共有しながら、ヨハネも希望の虹をこの個所に描いています。

長老というのもイザヤ書に、月は辱められ、太陽は恥じる。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現わされる時(イザヤ二四・二三)とあります。二四人というのは旧約聖書からではありませんが、旧約の十二部族と新約の十二使徒を合わせた数だと言われたり解釈は色々あるようです。

という訳で、ヨハネは、霊に満たされ恍惚状態になって幻聴を聞き幻視を見たとかいうのではなく、旧約聖書や旧約来の歴史に思いを馳せ、そこからむしろ冷静に思い巡らした。このように御言葉に繋がった中で思いを巡らすこと、それこそが霊に満たされることだと言うべきでしょう。不可解な表現に捕らわれず振り回されずに、私たちも冷静に、旧約聖書から思いを巡らしたヨハネの思いを受け止めて行けば良い訳です。

 

詩編もまた天上の礼拝を記します。主よ、天があなたの驚くべき力を告白し、聖なる者がその集会で、あなたのまことを告白しますように。雲の上で、誰が主に並び得ましょう(詩編八九・六)。  黙示録に戻りますが「主よ、私たちの神よ」(黙示録四・一一)と呼びかけて礼拝をささげています。この言葉は当時、ローマ皇帝に向けて呼びかけなければならなかった言葉だったそうです。人々にそれを強いる同調圧力、間違った正義感が社会を覆っていた。こういうことはいつの時代、どこにでも起こることで、例えば、第二次世界大戦に至る頃、ドイツではみんなハイル・ヒトラーと言わねばならなかった。日本だったら、天皇陛下万歳と言わねばならなかった。本来ならば、国民のために国があるのに、国のために国民が犠牲になっていった訳です。

ローマ時代もそうだった。ヨハネにしてみれば、たとえローマ皇帝であっても誰が真の主に並び得ようか。キリスト者である自分たちは真の神である主、イエス・キリストに呼びかける礼拝をささげるのだとヨハネは信仰者を励ましています。

 

ところで、私たちはよく天国と言います。聖書には、天の国という言い方があります。他に神の国、天の故郷、都という言い方もあります。日本人の多くの人たちが持つ天国のイメージ、それは、死んだら天国で誰々さんと会える。重篤な病気になってそのような希望を持つことが出来るのは願わしい事です。では私たちキリスト者の希望は何でしょうか。

先々週の召天者記念礼拝では、都の門は一日中決して閉ざされないという聖句を味わいましたね(黙示録二一・二五)。また先週は、主イエスが「安心しなさい。私だ」と宣言して下さるその御顔をしっかり仰ぎ主イエスを神の御子と信じる。この主イエスに於いてこそ天の門が開いている。この信仰に陰府の力(=門)も対抗できない(マタイ一六・一八)という聖句を味わいました。そして今日は、見よ、開かれた門が天にあった(黙示録四・一)です。ヨハネは、天の門を通って神の顕現に接します。接するだけで神様ご自身のお姿は見えないですが、旧約の表現を用いて、黙示録も神様の栄光の有様を精一杯表現している。そして天上の礼拝に参加する希望を告げています。

時に地上の困難に遭遇する私たちの現実ですが、それに優る天上の確かな希望の現実がある。この希望を思い描きながら今を生きる、天国は死後になって初めて行く所というより、今、既に、私たちは希望の内に天国の現実を生き始めている訳です。この教会の礼拝も、天上の礼拝を指し示すしるしです。私たちは天上の礼拝の前味を味わっています。

カテゴリー

過去の説教