日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2019年11月3日 説教:森田恭一郎牧師

「中心点に立ち返る」

詩編 一一五・八―一一
Ⅰヨハネ五・一八―二一

今日の説教題を「中心点に立ち返る」としました。中心点は信仰でありその内容は、この方こそ、真実の神、永遠の命です(二〇節後半)と語られている、主イエスに対する告白です。そして、子たちよ、偶像を避けなさいと続きます。

詩編一一五篇、偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。偶像と同じように無力になります。続けて、イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾と語って止みません。中心点に立ち返れと呼びかけています。

 

本日、招きの言葉で読みましたイザヤ書には、弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え(三五・三―四)とあります。イスラエルの民、信仰者と雖も、手が弱る、膝がよろめく、心がおののく事態に立ち至ってしまった訳です。私たちも同じ。病や事故、事業がうまく行かない、変な噂や非難が聞こえて来る、そういった何らかの辛い事に遭遇しても「信仰があるからそこを果敢に乗り越える」となりたい所ですが、むしろ「以前は信仰があったけれども今こうなってみると、こんなに自分の信仰が弱いとは思いも寄らなかった」と呟き、信仰の膝がよろめいて、心もおののいてしまう。私たちは、ヨハネが戦っている誤った信仰に積極的に生きている異端者ではもちろんありませんが、キリストを正しく告白して積極的に生きて行くことが出来なくなって、よろめいて消極的になる。

何故そうなってしまうのか。自分の信仰は強いと思っていたけど…と言いながら、結局は自分の強さで生きていたからではないだろうか。自分が偶像になって自分の強さで生きて来たから自分が弱くなると崩れてしまう。本当は無力なのに…。また誰かの噂話や非難の声でよろめくなら、教会に集いつつもキリストに繋がっているのではなく人間関係に生きていたからではないか。だから噂話くらいで崩れてしまう。

今日私は、だから駄目だと言いたいのではない。私たちは、神様ではないから、手が弱る、膝がよろめく、心がおののく。言いたいのは、そのように崩れた時がむしろ、チャンスです。自分を支えている中心点はどこにあるのか、自分の力強さを中心点にして生きていたのか。自分の人間関係に寄り頼んで生きていたのか、それともキリストに寄り頼んで生きていたのか。それを振り返って信仰に立ち返るチャンスです。その信仰の内容の中心点はキリストです。真実の神、永遠の命(二〇節)であられるキリストに立ち返るチャンスです。

 

イザヤは続けて語ります。「雄々しくあれ、恐れるな」。こう言われますと、それこそ自分の力で雄々しくなくてはいけないと思いがちですが、何について雄々しくあるのかというと「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」。来て救って下さる神を見ることに於いて雄々しくあれ。思えば、キリストはクリスマスの時に、天上から地上へと来て下さいました。今は、聖霊が私たちの内に来て下さって私たちを支えて下さいます。

ヨハネも語っています。私たちは知っています。三回繰り返すその一回目です。すべて神から生まれた者(=私たち)は罪を犯しません。神からお生まれになった方(=イエス・キリスト)が、その人(=私たち) を守って下さり、悪い者は手を触れることができません。信仰が弱り、よろめき、おののいた時、私たちを守るのは私たち自身ではなくキリストです。キリストに立ち返ればいい。

すべて神から生まれた者(=私たち)は罪を犯しません。私たちが罪を犯さないなんてとんでもないとも思いますが、皆さん、もし、キリストから離れたいですかと真正面から問いかけられて、信仰を捨てて離れたいですとは答えないでしょう。それが罪を犯さないということです。そしてキリストから離れないのは、キリストが聖霊によって私たちを守って下さるからです。だから罪を犯しません。キリストが聖霊によって守るなら悪い者は手を出せない。ヨハネはこのことを第一に知っているのだと信仰者として宣言している。

ヨハネは二回目に語ります。私たちは知っています。私たちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。私たちは、この世が罪深く、また不条理を経験します。だから私なんか神様に見捨てられたのだと思うのではなく、私たちは神から生まれた神に属する者ですと言う。通常、キリストが神から生まれた者で、私たちは被造物で神に造られた者だと考えます。でもここではそういう区別ではなく、信仰者というのは神から生まれたのだと言いたいのです。そして私たちは神に造られたのですが、神から生まれた者として、神に属する者、神のものです。私たちが天に召される前に、真の神様から、あなたは私に属する者、私のものだ。決してあなたを捨て去ったり見捨てたりはしない。何故ってあなたは私のものだから。こう言って戴けたら安心ですね。このことを元気でいる内から確信して生きていきたい。

 

ヨハネは三回目に宣言します。私たちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えて下さいました。考えてみれば、もしイエス・キリストがこの地上に来て下さらなかったら誰が、本当に神様がいらっしゃる、と思い込みではなく確かなこととして証言できるでしょうか。また私たちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。もしイエス・キリストが十字架で罪を贖って下さらなかったら誰が、ここに愛がある(四・一〇)と神の真実を断言できるでしょうか。愛であられるから、この方こそ、真実の神ですと信仰を告白する。「イエスは主である」という言い方より強い言い方です。一見人間に見えるイエス。確かにそうなのだけれども、同時に、「この方は神様だ」と告白する。これは簡単に言えることではありません。半神半人でもない、一〇〇%真に人、同時に一〇〇%真に神であられるお一人の一〇〇%のお方です。そして永遠の命です。永遠の命。無限にいつまでも死なない命という意味ではありません。主イエスが祈られました。永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ一七・三)。キリストに出会い、父なる神とキリストが関わって下さると信じます。

 

今日、孤独ということが言われるようになって久しい。二〇二五年問題に続けて二〇四〇年問題があるそうです。団塊の世代の子どもたちが老年期になり、かつ、圧倒的に介護施設も介護者も足りない。独り住まいの住居で孤独死する人が増えると予測される。孤立死とは異なります。安否確認の訪問者が増えれば孤立は防げます。孤独は、本当にその人と関わってくれる親族も身寄りがなく関わる友人もいない。体は元気でも孤独な人は生き生きしていない。その延長線上に死期を迎える孤独死。

キリスト=神様が関わって下さる。このことを認識し信じられるならば、その人は永遠の命を生きていると言える訳です。私たちは、キリストを知っているし、信じることが出来る。私たちの中心点は、イエス・キリストですね。

手紙の終わりに、子たちよ、偶像を避けなさい(二一節)とありますが、主イエスを正しく告白しない誤った信仰の在り方と、そして言うまでもなく当時の社会に溢れていた文字通りの偶像の双方を指しているでしょう。誤った信仰にも偶像にも巻き込まれてはいけない。だから避けなさい。知っているはずの事に立ち戻ればいい訳です。

 

先週一〇月三一日はルターによる宗教改革記念日。信仰に生きたルターも全てが順調だった訳ではなかった。自分がよろめきそうになった時、思わず、インク瓶を投げつけて「サタンよ、退け、私はイエス・キリストの名によって洗礼を受けたのだ」と叫んだのだそうです。この逸話から、洗礼を受けたことを思い起こすのは意外と大事であると改めて気付きます。信仰によって堅く立つと言っても、その信仰がよろめいている。だから洗礼を受けたことを思い起こせばいい。一見、ただの儀式でしかないと思えることもある洗礼式ですが、やはり単なる儀式ではない。そこでキリストに属する者とされキリストのものとされて永遠の命に生きる者とされる出来事が起こる。その洗礼を受けたし、主の臨在に触れそれ再確認する聖餐に与っている。弱い時にこそ、聖礼典の有難さは身に染みて来る……。

毎日の生活での様々な課題を背負いながら、日曜日に向かって一週間を歩む。また教会で誰かの事で躓くこともあるかもしれない。その時も中心点はキリストです。偶像をただ避けるだけではない。中心点にしっかり結びつく。自分の信仰の強さではない。キリストが罪を贖い救って下さった、このキリストの強さに立ち返る。

今日は聖餐式。自分の信仰の中心点=キリストを味わいます。そしてこの中心点がはっきりしていれば、派遣される日常生活にても揺るぎません。

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