イザヤ五五・八~一一
エフェソ三・二〇~二一
パウロは、エフェソを初めとする諸教会と信徒=聖徒のために祈っています(エフェソ四・一六~)。その終わりに神様の栄光をたたえる頌栄をもって祈りを締めくくっています(エフェソ三・二〇~)。今日はその前半の聖句を味わいます。
頌栄の祈りは、祈りの意味を指し示しています。祈りは、私たちの自分の願い求めを超えて、神のための祈りだということです。もちろん自分の願い求めを祈ってはいけないとぃうことではありません。が、聖書が示す祈りの心は、神様の栄光をたたえることが基本にあるということです。
それがあるからこそ、困難や自分の弱さの中で祈る願い求めも、祈った通りに実現するかどうかを超えて御心が実現していく、それが自分にとって最善なのだと深い所で、あらゆる人知を超える神の平和(フィリピ三・七参照)を戴きながら祈ることが出来る。前回の聖句の表現で言えば、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ三・一八~)の中に包まれている。見える現実は困難や弱さに直面していても、キリストの愛はもっと大きい。そしてついには、神の満ちあふれる豊かさの全てに与り、それによって満たされるように、と希望を捨てずに耐えられるようになるでしょう。
それで今日の頌栄をささげる相手である神様を、私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすること全てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に(エフェソ三・二〇)と表現します。
今日は旧約聖書をイザヤ書から選びました。イザヤのこの聖句の背景にあるのは、バビロン捕囚という現実でした。自分たちの国が戦争で負け、敵国バビロニア、異教の土地に捕虜として連れて行かれた。何十年も経っている。人々は全く希望を持てず、信仰も殆ど失いかけている。そのような中で、神はイザヤに語りかける。私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ書五五・八~九)。正に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを証ししていますね。
そして雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす(イザヤ書五五・一〇~一一)。
使命を告げる。「君たち、これをしなさい」という捕囚の民への使命というより、まず、神の言葉自身への使命です。御言葉を成し遂げる。神様のご意思こそが成就する。神様のご計画こそが実現していく。ここに救いの根拠、希望の確かさがありますね。お前たちが頑張れ、ということではありません。捕囚の民に求められていることがあるとすれば、神様の御言葉を、ご意思を、ご計画を信頼するということです。そして、彼らはイスラエルに帰還する事が出来た。彼らがバビロンと戦って勝ったからではありません。新しいペルシャの国がバビロニアを滅ぼすという大きな歴史の中で、新たな王がエルサレムへの帰還を認めることによって実現していった。イザヤは、真の神様が異教の国さえも用いて、ご計画を実現していくことを知らされたのでした。これは人々が思ったり求めたりすることを遥かに超える出来事でした。
パウロはこの神様をこう語りました。私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすること全てを、はるかに超えてかなえることのおできになる方。本日の主題は御力です。あの歴史を動かす力のある方が、私たちの内に御力を働かせて、ご計画を叶えて下さる。驚くべきことです。こんなちっぽけなこの自分の内に、御力が働く。この御力が働く所に御心が実現していく。その様なことがあるのでしょうか。
思えば、人が、そして自分が生まれてきたのは、天地創造の前に神様が愛してお選びになったからだ(エフェソ一・四参照)と私たちをこの信仰の理解に導いています。そして人生の終わりは天に召されます。地上に命授かるのも天上に召されるのも、聖霊の御力によるものです。それで私たちは天に希望を繋いで生きることへと招かれています。地上の人生だって、自分たちの力だけで生きているのでしょうか。生かされて生きています。これらのことは全て、神様の御力による。
もっとも私たちは思うかも知れない。困難と弱さの中にあって、神の御力なんて働いているのか、と。困難は、人間の罪に原因があることが多い。戦争はその典型です。不条理の場合もあります。これらは皆、御力にあらがうものです。御力は罪や不条理を内に含みながら、ご計画を進めていく。無力に見えるあの十字架はまさに罪を抱え込みながらの御力の現れです。そう信じます。
そのような中、パウロは御言葉を受けました。 「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント一二・九)。パウロはこの御心を知ってこう応えました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それ故、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです。
そしてエフェソ書のパウロのこの聖句も思い起こしたい。神は、その力を働かせて私に恵みを賜り、この福音に仕える者として下さいました (エフェソ三・一六)。パウロの場合は福音に仕える使徒とされました。私たちは使徒ではありませんが私たちは私たちで、その各々の人生でその都度、今、自分は福音に仕えて生かされている、信仰に生きている、と思う瞬間があるはずです。その時、キリストの力が自分の中にも働いている、そう生かされていると確信します。